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“叛逆の物語”へ向けて『魔法少女まどか☆マギカ』のコラム的考察Ⅰ

ライターunknown_white_liquidさん(最終更新日時:2013/10/24)投稿日:2013/10/22

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『魔法少女まどか☆マギカ』のコラム的考察です。文章・表記ゆれてます。

俺がそう思うんならそうなんだろう、俺ん中ではな。

溢れるまどマギ愛がこんなもん書かせちまって先手くぅ疲。

マンドクセという方はに特にまとまってますんでそちらを。

※追記

分かりにくいですがノートの10000字制限のため分割しています。

Ⅰ=1~3 Ⅱ=4 Ⅲ=4~5.1 Ⅳ=5~ Ⅴ=5.2~6

全部を読むには上記ライター名をクリックして一番下からお願いします。




叛逆の物語へ向けて『魔法少女まどか☆マギカ』のコラム的考察

〜この世は生きるに値するか〜


わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

風景やみんなといっしょに

せはしくせはしく明滅しながら

いかにもたしかにともりつづける

因果交流電燈の

ひとつの青い照明です

(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

 

これらは二十二ヶ月の

過去とかんずる方角から

紙と鉱質インクをつらね

(すべてわたくしと明滅し

みんなが同時に感ずるもの)

ここまでたもちつづけられた

かげとひかりのひとくさりづつ

そのとほりの心象スケッチです

 

(宮沢賢治『心象スケッチ 春と修羅』[初版より「序」冒頭、一部旧字体を編集])

 

 

 

■目次

 

はじめに

      1.1 考察にあたって

      1.2 物語は終わったのか

      1.3 考察の流れ

題名からみえる物語への態度

  3 小津安二郎テイストの映像表現と作品の世界観

  4 物語類型の分析

      4.1 ドイツ教養小説と自己実現理論から

      4.2 世界樹からセフィロトの樹へ

      4.3 洪水神話と村上春樹氏の短編より

      4.4 永劫回帰と超人

      4.5 視聴者と作品の入れ子構造

  5 登場人物の分析

      5.1 志筑仁美の絶望

      5.2 佐倉杏子と『さそりの火』

      5.3 間違える美樹さやか

      5.4 救済者キュウべぇ

      5.5 まど神の元型たる巴マミ

      5.6 親不孝になる鹿目まどかの必然

  6 最終話「わたしの、最高の友達」の提示するもの

(5.7) 暁美ほむらのペシミズム

 

 

はじめに

1.1 考察にあたって

 作品の見方は人それぞれであって、『魔法少女まどか☆マギカ』(以下『まどマギ』)もそのような作品の一つです。

ここでの考察は主観ですし、私もそうでしたが、人によっては初見での感覚と、放送後の制作側から出た情報との違いもあると思います。例えば、第3話でほむらが倒した魔女から落ちるモノが、巴マミの死体の一部であることは否定もされています。

ですが、作品の意味するところは、作者ですら意図しないところへ向かうものです。あのモノが、観た人にとって巴マミの死体の一部であると映ったのなら、それでいいのだと思います。ですから、私の印象もそのままです。

一方で、このスタンスは、先入観や思い込みと区別の付かない危険性も孕んでいます。それは否定しません。ただ、なるべく客観的になるようには努めました。

以上を踏まえて、考察をしてみたいと思います。

1.2 物語は終わったのか

 賛否両論と形容される最終話によって、『まどマギ』という物語は、終焉を迎えたかに思われました。しかし、劇場版というかたちで、正式な新作の制作が発表されます。

 とまどった人も多いのではないでしょうか。私自身も、物語はキレイに終わったのに作るのかー、と思いました。

 では何故、新作となる新たな物語を作られるのか。

それは、物語という存在自体に新しい物語を生む力が内包されているからに他なりません。商業的な理由や、制作側の意欲なども含めて、本質的にはこの点に尽きると考えます。

 旧約聖書という物語は、様々な捉え方ができます。それにも関わらず、新約聖書は作られました。なぜなら、多角的な視点を提供するということは、その物語自体が多角的な視点の一つであるということを暗に示すことになるからです。

つまり、そもそも物語という存在が読み手の存在の数だけある以上、その物語自身の数多の解釈とは別に、新しい物語の創造がその物語自身によって行われるのです。それは前任者の物語を否定するのではなく、物語として肯定するからこそ為されます。

終わりは始まりとはよく言ったもので、『まどマギ』という物語はやはり確かに終わったのですが、それは新たな物語のはじまりでもあるようです。また、『まどマギ』が物語である限り、『まどマギ』もまた他の物語から生まれたと言えます。

この考察では、『まどマギ』の様々な見方を通して抽出されるものを検討し、その抽出されたいくつかの『まどマギ』という物語の捉え方から『[新編]叛逆の物語』へ向けた整理と確認を行います。

1.3 考察の流れ

 では題名からこの作品の物語への態度を示します。では映像表現に焦点を当て、作品の世界観を明示します。では構造分析を試みます。では登場人物を分析します。では得られた分析から登場人物・暁美ほむらと最終話を再検討し、『まどマギ』という物語の総括と新しい物語への焦点を示します。

また、この考察では、放送時期やプロモーションの手法、アニメーション制作や梶浦さんの音楽、声優さんたちの演技などといった面からのアプローチは基本的にしていません。そういった面からの考察もあるので、興味のある方は是非。(オーディオコメンタリーで脚本家の虚淵さんも、巴マミ役の水橋かおりさんの演技によるテキストだけからは出てこなかった喪失感を例に、アニメーションという共同作業だからできたものであるとおっしゃっています。)

 

題名からみえる物語への態度

 名は体をあらわす、というようにまずは題名の分析からはじめようと思います。

作品を指し示す題名は「魔法少女まどか☆マギカ」の日本語表記で十分なのですが、映像作品ということもあって、「Puella Magi Madoka Magica」とラテン語が併記されています。ラテン語表記についてはMagiの誤用が指摘されていますが、そのままもしくはMagiを外来語として扱えば、そこまで問題にはならないと思うのでここでは省きます。

この考察で指し示すラテン語というのは外来語表記の「マギカ」という部分です。

 「魔法少女まどか☆マギカ」という題名は、語感やキャッチーさ、『なのは』やシリーズ展開を見越した商業的な理由など様々な面もあるでしょう。しかし、なんかおかしい。

「魔法少女」は、物語のジャンルとしての魔法少女モノを意味している。「まどか」は主人公の名前のようです。「マギカ」とはどんな意味なのか。

(魔法少女モノというのは、魔法少女という設定によるものをさすように思われますが、ここでは物語の類型として、思春期の少女によるエブリデイ・マジック=日常に不思議が迷い込む、を素地とした低年齢向けの物語性を有したものとします。『まどマギ』の要素を含んだものもあるにはありますが、そもそも日本における魔法少女モノの出発点と本流がこの意味であろうと考えます。)

「マギカ」は「魔法の」という意味ですが、そうなると題名に「魔法少女」「魔法のまどか」と“同じ意味”の言葉が重複してしまっています。「野球少年たろう★ベースボール」って何言ってんだってなります。

そこで「マギカ」を同じ意味にしないことが必要になってきます。

日本語の「魔法」という言葉は訳語として成立した比較的新しい言葉で、「マギカ」=Magic/Magusの方が語源であり先に存在する言葉です。古くは2000年以上前の宗教の司祭の意味で当時から既に登場しています。そして様々な意味の変容をたどることになります。

つまり「マギカ」とは、確かにラテン語由来の外来語で、どうやら「魔法の」という文字ではあるけれど、「マギカ」という文字からイメージや意味を想起するのは、言葉を使う人間なのだということが分かるわけです。変容していった意味たちは、その時代時代の現実と空想の物語の中で獲得されました。

ここで「マギカ」については、〈題名の中の意味の可変性の象徴(文字列・記号)〉としてありのまま受け取る文脈と、物語の中で使われる〈マギカ(魔法)〉が旧来の魔法少女モノにおける〈魔法〉とは未知の異質なものであると受け取る文脈の、二重の文脈で読むことにします。

なぜなら、この鍵を得たことによって、意味が重複している不可解な題名の整合性の取れる読み方が明らかになるからです。

ひとつめの〈題名の意味の可変性の象徴〉としては次のように読み解くことができます。

あたまの「魔法少女」とは、この作品が魔法少女モノというジャンルの一つの作品であることを意味しています。と同時に、重複している「マギカ」によってその意味が変容するかもしれない可変性を与えられてしまっているのです。可変性を与えられてしまったのでは、「魔法少女」という言葉を、魔法少女モノとして断定できなくなります。

残る手がかりは「まどか」という主人公の物語がどうなるのかという点です。

それは、鹿目「まどか」という主人公の物語によって書き換えられるかもしれなく、もしもその物語によって、「まどか」を形容する「魔法少女」の意味が変容させられるのだとしたら、そこではじめて「魔法少女まどか☆マギカ」としての題名が成立します。

結果として、『まどマギ』は、希望と絶望の物語によって、自身の題名に冠せられた「魔法少女」という言葉を、既存の魔法少女モノという意味から変容させました。

 また、どの時点で「魔法少女まどか☆マギカ」が題名として成立することになったのかというと、それは第10話です。

たしかに今までの魔法少女モノという意味から変容した希望と絶望の「魔法少女」物語ではあるけれど、あくまで「魔法少女まどか」なので、主人公・鹿目まどかが魔法少女にならなければなりません。しかし、まどかはいつまでたっても魔法少女にならないため題名が成立しません。物語の中の時間軸上でまどかが契約するのは最終話ですが、第10話においてほむらの回想によって、彼女の主観の時間軸の過去で既にまどかが魔法少女になっていたことが明かされるため、そこではじめて題名が成立することになります。そのために第10話では、各エピソードが明かされた直後に題名を提示するOPが入ったのです。

 ふたつめに、〈マギカ(未知の異質な魔法)〉としてみてみます。

 『まどマギ』における魔法とは、祈り・願いの代償として魔女と戦うために与えられるものであり、魔女と戦うことで人を救えるという自己実現のようにみえる面もありますが、穢れを溜め込むと魔女になってこの世を呪うという摂理から、多くの魔法少女モノの魔法とは本質的に異なります。自己実現のようにみえる点に騙されたのが、まどかをはじめとする『まどマギ』における魔法少女達の悲劇といえるでしょう。

 また、ラテン語という人類の歴史でも特に古い言語を使ったことで、有史以前から文明に干渉してきたキュウべぇによる〈魔法〉なんだぞ、というSF的な補強にもつながっているように思えます。

 では、その悲劇の〈マギカ〉とすると、冠せられた「魔法少女」は、そのまま特に意味の変容の無い魔法少女モノと受け取るのが素直だと考えます。

すると、『まどマギ』というのは悲劇性をまといつつも、既存の魔法少女モノであるという捉え方ができることになります。

これは単にジャンル分けの問題ではなく、児童文学や低年齢向け魔法少女モノのファンタジーで描かれる希望というものを、発展や否定するのではなく悲劇を通してでも肯定するという強い意志をわたしたちに投げかけてくれているように思います。

次に、題名からこの作品の物語という存在への態度をみていきます。

題名を考察して、大別すると二通りの読み方ができることになりました。「魔法少女」の意味を変容させる読み方と、悲劇性をもちつつもあくまで希望のある魔法少女モノであるという読み方です。

これは矛盾しているようですが、二項対立になってしまう矛盾する読み方を共存させることで、〈旧来の意味を冠しつつもその意味を昇華させ新たな意味へと変容させていく。だから冠せられた旧来の意味自体も書き換えられ、矛盾とはならない〉といった、その先の読み方を提示しています。

ここから、この作品の物語への態度がみえてきます。

それは、脈々と受け継がれてきた物語を否定するのではなく肯定し、それ故に、受け継ぐものを有しつつも、変容された新たな物語を生むという態度です。

そして、そのような物語への態度で生まれた『まどマギ』もまた、新たな物語の礎となっていくことを示します。それが『[新編]叛逆の物語』になるのでしょう。

あと、☆については、よくわかりません。まどかは星になったのだ。

(ちょっと補足で、「魔法少女」の意味が変容した上で、個別の作品として、ストーリー重視の視点から、題名の第三、第四、第五の読み方を。第三に、最終話のまどかの因果律を超越した祈りがQBに受理されるわけですが、この受理されるとは思えないような祈りが受理された点、SF設定的にはまどかが逝った概念の次元か更に上位に救済者がいる可能性や、ほむらへリボンを残すことができた事など、を表現するための「マギカ」。悪く言えば魔法のようなご都合主義。第四は、新たな魔法少女システムが構築された際に、まどか自身が自身の祈りによって絶望から救われているので、まどか自身の祈りの力を「魔法の」とし「マギカ」。第五にMagica Quartetの中の人による「魔法」。)

【題名の読み方】

「魔法少女まどか☆マギカ」=①と②を合わせた読み方

    意味の変容した希望と絶望の魔法少女 / 主人公まどか / 意味の変容の象徴

    旧来からの魔法少女モノ / この作品特有の悲劇の本質としての魔法の主人公まどか

() ①と②の魔法少女  / 最終話、祈りがまるで魔法のように受理された主人公まどか

() ①と②の魔法少女  / 自身すら救う祈りの主人公まどか

(⑤) ①と②の魔法少女  / Magica Quartetの魔法の主人公まどか

 

小津安二郎テイストの映像表現と作品の世界観

 次に、映像表現に焦点を絞って作品を考察していきたいと思います。

 小津安二郎監督は、日本の映画監督で〈小津調〉と言われる独特の映像世界を築いた偉大な監督です。その作風は今なお様々な映像作品に影響を与えています。

 『まどマギ』も、〈小津調〉というほど厳格に則っているわけではないですが、ところどころにその影響が垣間見えるためテイストとして探っていきます

 探っていくと、重要な哲学が共通しており、それが『まどマギ』の物語を成り立たせている重要な世界観となっていることがわかります。

 いくつか小津安二郎テイストといっても良い点と該当シーンを。

【小津安二郎テイストの映像表現】

    ローポジションと呼ばれるカメラの位置が低い点

→ローポジションについては、撮影の際に散らかった床を映さないために生まれた

偶然の産物で、できた構図も悪く無いので使うようになったと小津監督自身が

言及していますが(床が映ることもありますが、画面の面積を多く占めない)

その効果として、空間の広がりや子供の目線になれるといった解釈もあります。

『まどマギ』は、このローポジについて厳格に運用されているわけではないですが、

ところどころの重要なシーンで活用されています。

 ・マミの初登場シーン、マミがノートをまどかに返すシーン

 ・杏子がうんまい棒をまどかに手渡すシーン、杏子のラーメンのシーン

 ・ほむらがワルプルギスと対峙するシーン

 ・さやかが魔女化する直前の杏子とのベンチでのシーン

 ・最終話のまどかの変身シーン

(また、映画の文法破りと言われる小津監督が確立した技法に似ているシーンも出てきます。第4話でまどかとほむらが夕暮れの中で共に下校するシーンです。)

    バストショット及びウエストショットの多用

→これについてはとくに説明の必要はないと思います。但し、顔のアップは

小津監督の作品ではみることはできません。『まどマギ』はかなり使っています。

    構図を優先した人物配置

→小津監督の作品の特に特徴的な部分で、その構図の美しさはずば抜けています。

『まどマギ』では構図そのものが似た要素は少ないですが比較的に構図を優先して

人物を配置する点は共通していると思います。左右対称の構図だけでみても以下の

シーンが有ります。

・ほむらとまどかが学校の廊下で向き合う第1話と第10話のシーン

・ほむらが杏子とさやかの戦いに割って入った直後のシーン

・杏子の廃教会でのさやかとの対話のシーン

    徹底して美を追求する姿勢

→小津監督の作品では、できる限り本物の美術品が使われました。風景画や書など

  実物が最も美しいからです。また画面から徹底して汚物、不純なものを排しました。

『まどマギ』では、劇団イヌカレーさんの美術品がでてきます。背景や遠景では、

実物ではありませんが、世界中、日本中の実在するデザイン性の高い建築物が

出てきます。これらの芸術性と共に、ほぼ全てのシーンで美が重視されています。

 ・劇団イヌカレー作の魔女、異空間設計

 ・さやかと杏子が初めて出会う小道の雨どいがドイツの芸術小道など

 ・まどか達の住む街とは対照的な工場なども美しく見せる工夫が施されている

 

 以上、『まどマギ』の小津安二郎テイストを探ってみたわけですが、全体にいえることは、④に顕著に示されるように、作品の端から端までになるべく美を盛り込むということです。

 そういった姿勢は、どのような哲学に基づくものなのでしょう。

 小津安二郎監督の哲学は次のご本人の言葉にあらわれていると思います。

 

 「私は画面を清潔な感じにしようと努める。なるほど汚いものを取り上げる必要のあることもあった。しかし、それと画面の清潔・不潔とは違うことである。映画ではそれが美しく取り上げられなくてはならない」(松竹編『小津安二郎新発見』[講談社、1993年])

 

 この言葉は、娯楽としての映画が観ている人を飽きさせないためのものとする面もありますが、根本的には〈この世界は美しい〉と捉える世界観を述べていると考えます。

上記の言葉で小津監督は、「汚いもの」がこの世に存在していることを認めつつも、それを美しく取り上げられることが可能でありそうするべきだと述べています。

 これは「汚いもの」を安直に美化するということではありません。「汚いものを取り上げる必要」と述べているように、「汚いもの」は「汚いもの」なのです。

しかし、「汚いもの」も捉え方によっては美しくみえるのであり、それは即ち、〈この世界は美しい〉と捉えようとする小津監督自身の世界観と言っていいと思います。

美というのは生への肯定があってはじめて感じる事ができるのであり、小津監督のこの〈この世界は美しい〉という世界観は、より踏み込めば生への肯定といえるでしょう。

生への肯定というのは、死の存在を無意味・無価値と拒否するものではなく、生も死も等価であることを認めるからこそ、死が生を生たらしめるといった姿勢で、生きながらにして死んでいるような生とは対極にあるものです。

 翻って、『まどマギ』です。

 劇団イヌカレーさんの魔女を形容する言葉として不気味とよく聞かれますが、果たしてそれは、「汚いもの」をそのままにしているでしょうか。

魔女にバラの花が散りばめられているように、そこには「汚いもの」を美しくみせる工夫があります。これは、バラの花も「汚いもの」にみえるという視座を示していますが、その次元とは別に、その両方の視座自体を芸術的に表現しているといっていいと思います。

同様に、まどか達の住む清潔な街とは対照的な工場や廃ビルも夕日に照らされたり、差し込む光によって美を形作っています。

これらは小津監督の世界観と同じものであると考えます。生への肯定についてはどうか。

『まどまぎ』では、1シーン、「汚いもの」を美化せずに、あえてリアリティにこだわったと思われる場面があります。全12話の中で特に異質なものです。

それは、仁美をはじめとする人々が魔女の口づけによって集団自殺しようとするシーンです。このシーンは、特に画面が寂しく感じられ、ただただ陰鬱な表現となっています。

 これは何故なのかというと、自殺というのは生きることの放棄であるからです。

 〈この世界は美しい〉とするなら「汚いもの」である自殺も美化できるように思えますが、これは絶対にできません。自己言及のパラドックスに似ていると思います。

 つまり、〈この世界は美しい〉というのが、生への肯定であるがために、その「汚いもの」を美しく捉える世界観を持ってしても、生きることの放棄という現実のシーンだけは基本的にそう捉えることができなくなります。

但し、第3話でマミがOLを救うシーン(飛び降りる直前は若干リアリティが優先されているように感じます)や、第10話でマミが心中を企てるシーン(ここは荒涼としたリアリティと構図を優先した人物配置の両方といっていいかもしれません)、この第4話での魔女空間や直前の仁美の歩き方、第10話でメガネのほむらが「死んじゃえばいいんだよ」との囁きで迷い込む魔女空間のように、生への肯定のためにそういった迷い・無明を描く場合に限り、その存在を認めて、〈この世界は美しい〉とする世界観で描かれています。(まどかが死ぬのを理解した上で第10話で特攻・最終話で契約する点については自己言及のパラドックスとして5.6で述べます)

 ここまでの考察を通して、『まどマギ』の小津安二郎テイストを含む映像表現に込められたものが、〈この世界は美しい〉という世界観であり、それが、より踏み込んだ生への肯定であると分かりました。

 このあとの項目で詳しく述べる『まどマギ』の物語に存在する〈この世は生きるに値する〉という生への肯定が、実は、映像表現を通して物語をなぞる前に知らず知らずのうちに読み手に与えられていたことによって、物語の最終段階で主人公まどかによって提示されるこの生への肯定を、多くの人が違和感なく、むしろ納得するかたちで受け取れるのだと考えます。

 一応、この見方から作品内でのギミック的な解釈を付け足すと、最終話で、魔法少女となったまどかが空に出現したカバラのセフィロトの樹のような魔法陣(ピンク色の渦巻きみたいなアレ)の真ん中に向けて矢を放つのですが、セフィロトの樹で真ん中はティファレトと呼ばれる美の位置になります。また、ティファレトは黄色と金に対応しているとする見方もあるのですが、まどかが白いドレスの女神まどかと呼ばれる時の目は黄色を基調とした金に近い色に変化しています。もちろん、希望を黄色で表現しているのであって美ではないという見方も考えられますが、この考察では『まどマギ』における美を生への肯定としているので、生への肯定を希望と考えれば同じであるといえます。(セフィロトの樹ではダアトと呼ばれる知識//悟りに関するものが奥に位置していますが、まどかが射た部分の円の他の円との相対的な小ささから、このダアトとも取れるのですが、それについては4.2の補足で述べます)

 ※今後も取り上げるカバラですが、そういったオカルトと非難されることもある思想と、作品の物語に存在するものを同じだとはしません。上記の美についていえば、ティファレトとこの作品の持つ美の概念は違います。

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