“叛逆の物語”へ向けて『魔法少女まどか☆マギカ』のコラム的考察Ⅱ

物語の類型など

4.1 ドイツ教養小説と自己実現理論から

 ドイツ教養小説というのはゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』に代表されるような〈主人公が人生における様々な体験を通して精神的に成長する様子〉を描いた小説を19世紀の人が研究して与えた枠組みで、自己形成小説とも称されます。

 これは、ニュートン・ガリレオ・デカルトといった近代科学の祖が残した考えが産業革命によってその地位を堅固にした1718世紀のドイツにおいて広まっていた(この時代に体系的な現代科学の基となった力学などの研究がはじまっています)、人間形成(ギリシャ哲学の「モノは要素によって構成されている」といった哲学を人間にも適用する概念)から自己形成(人間とは成長し、自己を形作るものである)という人間の内面的成長の過程を、小説の物語に見いだすものです。

 自然科学者でもあったゲーテは、その人生の後期で『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』というドイツ教養小説の大作を書き、晩年には青年時代から死の直前まで書き続けてきた『ファウスト』と呼ばれる長編戯曲を発表します。『ファウスト』では、旧約聖書・新約聖書の天使やギリシャ神話の神々などを物語の舞台上に登場させています。

 ここで唐突ですが、人間性心理学で提示される自己実現理論とゲーテのつくった物語を結びつけてみたいと思います。

自己実現理論とは、心理学者マズローによる人間性心理学という心を意識として捉え、それを研究する学問の理論です。

そもそも人間の内面的な成長というのはどういった実態を指すのか、現代では発達心理学の分野といえると思いますが、この考察では、自己実現理論における欲求階層説が物語に登場する人物の成長を捉えるのに便利なため、この仮説を使って分析を試みようと思います。

※この学説は科学的と言っていいかは微妙な所で、多方面から批判が加えられています。被験者のサンプル数が極端に少なく、一般化できる科学的理論と呼べるものではありませんし、理論構造も仮説の域を出ません。この考察では自己実現理論という人間の成長に関する「仮説」を通して劇中の人物の心の成長と呼ばれるものにアプローチし、それによって得られる分析も有意義だという、完全に私個人の見解を基に採用しています。心とは何なのかについては、現代の心理学では認知心理学を主流として研究しています。

 マズローは自己実現理論で欲求階層説として、人間が自己実現へ向かって絶えず成長するものであると規定し、第1段階から第5段階へと至る、以下のような欲求の段階を踏むと考えました。第6段階はマズローが晩年に加えたもので、欲求では無くなります。また、段階から段階への移行は、欲求が十分に解消されていなくとも、ある程度満たされていれば可能であるともしています。

 以下は概要だと捉えていただければいいと思います。コラム的考察ということで、学術的な保証をするものではありません。

【マズローの自己実現理論における欲求階層説】

1段階 生理的欲求   (例:睡眠欲や食欲といった本能的欲求)

2段階 安全の欲求   (例:経済的生活的安定を求める欲求)

3段階 所属と愛の欲求 (例:他人から認められたい欲求)

4段階 尊重の欲求   (例:他人と自分から尊重される欲求)

      →満たされないと特徴として劣等感・無力感を感じるようになる

5段階 自己実現の欲求 (例:自己を確立し実現する欲求)

      →満たされると自発的、対人関係において心が広く深い

      →満たされていると自分自身がその可能性や能力を最大限に発揮し、

自身が適しているものになっているという自覚のある状態になる

6段階 自己超越

      →例:深い洞察を得た経験があり、創造的である

      →例:他者の不幸に罪悪感を感じる

 

 ドイツ教養小説における内面的成長過程とは、この欲求階層説で成長しているか否かを判定する場合、特に第3段階から第6段階までの欲求の解消と次の段階への移行を描いているものであり、成長しているとして差し支えないと思います。

『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』及び『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』において、主人公が恋愛をしたり演劇を研究するのは第3段階・第4段階の欲求を満たすためもので、ある程度その欲求は解消されます。最終的に社会の変革を目指すのも、第5段階の民主主義的性格・共同社会感情や第6段階の他人の不幸に罪悪感を抱くといった特徴と適合します。

 今度は、『まどマギ』のまどかを通じて、『まどマギ』の物語がドイツ教養小説で描かれる主人公の内面的成長過程のような一種の成長物語と捉えることができるのか、自己実現理論を通じて検討してみます。

 まどかは、序盤の家族との描写や杏子に言われた「幸せ家族」といった言葉に象徴されるように、自己実現理論における第3段階の欲求までは満たしているといえるでしょう。

次に、まどかはマミに出会い魔法少女という存在を知るわけですが、第3話でマミに魔法少女となる決意を伝えるシーンで、第4段階の欲求が解消されないことで出現する劣等感・無力感といったものを自分に対して抱いていることを告白しています。その後、まどかは魔法少女にならないのですが、それはこの観点から見れば内面的に成長していないということになります。実際、物語の中ではずっと苦悩と逡巡にハマってしまっています。

 では第4段階の欲求が満たされたまどかを物語の中でどこにみることができるかというと、それは第10話です。この第10話での魔法少女となっているまどかは自信に満ち溢れ、転校してきたほむらを自発的に保健室へ連れて行くシーンなどで対人関係における寛容さもみせており、第5段階の欲求すらも満たされていることがわかります。これは魔法少女となったことでマミから尊重され、まどか自身も自分を認めることができた事によって第4段階の欲求が満たされ、更に、魔法少女として戦う体験が、第5段階の自己実現の欲求も満たしているからです。事実、まどかは、自己実現の成果としてほむらを魔女から救えたことを自慢としてワルプルギスの夜へ戦いを挑みます。

しかし、『まどマギ』という物語では、第3話以降、その自己実現を目指す魔法少女達の行く末が魔女であるとしていて、その結果、生命の維持への欲求や安全な生活への欲求といった第1段階・第2段階の欲求も含む、人間の自己実現へ向けた成長に必要な、あらゆる欲求を妨げる元凶となってしまっていることが示されます。

この物語でのまどかも、第4段階が満たされないまま、たとえ第5段階の自己実現が成し遂げられたとしても、他の人間の自己実現を妨げる魔女というものになっていくことを、第11話のキュウべぇによる「インキュベーターと人類が、共に歩んできた歴史」という教えによって決定的に知ってしまいます。

キュウべぇ自身は、この点について「愚かとは言わないよ」と、魔法少女による自己実現からの犠牲を、社会を新しいステージに導いたと、進歩主義・功利主義の観点から価値あるものと評価しています。

 一方、まどかは、感情面から一旦それを否定します。それは騙されていたのであって望んだ結果ではないと。間違っていると。

ですが、そう否定した場合、まどかは魔法少女になることができず、まどかの自己実現は永遠に叶いません。同時に魔女化システムの中とはいえ、数多の魔法少女が自己実現へと向かった物語も否定することになります。そしてそれは、『まどマギ』が自己実現へと向かうために成長することを描いた物語ではなくなってしまうことを意味します。

しかし、まどかは魔法少女になることを選択します。これは、避難所でキュウべぇによってほむらの願いが絶望的であることを聞かされたのが決定打となっています。

 その決意、祈り・願いの形成については、若干飛躍しているようにも見えますが、既に、第3話でマミに決意を告白したシーンやキュウべぇにまどかの魔力がすごいことを伝えられているシーン、第8話で魔法少女になればさやかを救えるとキュウべぇに教えてもらっているシーンで、第4段階・第5段階の欲求が潜在的には満たされていたと捉えれば良いと考えます。

 この点を潜在的とするのは卑怯かもしれませんが、何度か契約への意欲をまどかが示している点から、そう捉えた場合に浮かび上がるものがあるとして考察していきます。

では何故、潜在的に自己実現が達成されているにもかかわらず、魔女化システムを理解した上でまどかは魔法少女になろうとするのか。

それは、まどかが自己実現の更に先にある自己超越の段階に成長したからだと考えられます。

 具体的には、自己実現を妨げる魔女化システムの元凶になってしまう魔法少女になるというまどか自身の自己実現も他の魔法少女による自己実現も、魔女化システムの元凶となる面を取り除けば元々まどかは望み肯定していたので、それを取り除くことそのものを自身の自己実現にしてしまえばいいという発想で、物語のマミ・さやか・杏子・ほむらの自己実現の行方や、キュウべぇによって様々な魔法少女の自己実現とその不幸を見せられたことが、まどかを第6段階の自己超越へと成長させたといえます。

そうして第6段階の自己超越の段階へ成長したまどかは、他者の不幸に罪悪感を感じる人間へと至り、そこから生まれた願い・祈りを叶えるために魔法少女になったのです。他者の不幸に罪悪感を感じるというのは、宮沢賢治の『雨ニモマケズ』をイメージすると良いかもしれません。

これは必然的にも思えますが、その成長に説得力を持たせるには、第6段階の深い洞察を得た経験というドイツ教養小説における体験のようなものが、いかに成長させるにたるものであるかを描くことが必要になります。それは『まどマギ』という物語に存在するまどかの絶望的な体験に拠ることになります。

特に、ほむらという他者がまどかのために不幸になっていることをキュウべぇによって知らされるシーンや第11話での泣きながらほむらに心情を告白されるシーンは象徴的で、この『まどマギ』という物語(時間軸)において、具体的に何かをほむらにしたわけでないにも関わらず、ほむらという他者を苦しめていることを現実に体験したことは、結果として、まどかを他者の不幸に罪悪感を感じる段階へと強制的に押し上げる体験になっているといっていいと考えます。

 以上の考察を通して、『まどマギ』という物語は、第4段階・第5段階の欲求が潜在的に満たされていたと考えれば、マズローによる人間とは自己実現へ向かって絶えず成長するものであるという規定に則った自己実現理論の欲求階層説と適合するかたちで主人公が成長する構造を有していて、同じような構造を有するドイツ教養小説(自己形成小説)としての成長物語と、ほぼ同一の物語構造であることが分かりました。

 また、このことからは、『まどマギ』の物語について、次のことがわかります。

設定上の因果の収束による魔力の増大が、まどかの第5段階の欲求を満たすために条件として必要だったこと。第10話の過去の時間軸において無限に必要とも思われるエネルギー回収ノルマをキュウべぇが達成できている点から、まどかの魔力の増大が最終話での願い・祈りを実行するのに十分な段階にほむらの繰り返される時間遡行の途上のある時点でおそらく達していたにも関わらず、この時間軸のまどかだけが第6段階へ成長できたということから、この時間軸のまどかの体験が、マミ・さやか・杏子・ほむら・魔法少女たちの歴史を通して、まどかという人間にとって最も過酷なものであったということです。

(補足。ドイツ教養小説のはじまりとなったゲーテですが、後に彼は『ファウスト』を遺します。『ファウスト』はまさに人生の意義について描かれている戯曲で、成長物語を世へ送り出したのちにこの作品を完成させたのは非常に興味深いです。『まどマギ』の作品の中にも『ファウスト』の一節や重要な人物の名前が映像の中の文字として出てきます。)

4.2 ユグドラシルの樹からセフィロトの樹へ

 第1話冒頭で出てくる巨木は何なのでしょうか。結論から言うと、これは『まどマギ』における〈世界〉の象徴と言っていいと思います。

しかし、決して『北欧神話』におけるユグドラシルの樹(世界樹)と同じようなものだからという理由ではありません。それでは本末転倒で、そういった予備知識と呼ばれるものを持たず、介さずして見た人間にとってはただの巨木でしかないからです。

 では、なぜ、あのような巨木を〈世界〉と受け取れるのかというと、まどかという主人公を巨木の中を駆けらせ、またその大きさと対比させ、そこから見ず知らずの少女の戦う姿を傍観している様子を描くことで、一種の俯瞰する目線から捉えさせられるからです。対象からだんだんと離れて地球を映し出すような手法と似ています。

こういった巨大なものとの対比で俯瞰する視点を与える手法が〈世界〉と人間の対比の構図に感じられるかどうかは個人の感性に拠るのですが、『まどマギ』においてはそれを、多くの人々に愛されてきた『北欧神話』の世界観に根ざすユグドラシルの樹に似た巨木によって表現しているとするのが最も整合性が取れるものと考えます。

 そしてこれは、物語を語る上で、主人公及び読み手が今どこにいるのかをまずはじめに提示する必要があるためで、人類が紡いできた創造神話や聖書における創世記と同じ構造を持っています。結果論となりますが、そういった〈世界〉と人間の対比を重要視する物語は、最終的には主人公及び読み手といった〈世界〉を観測している人間が、何故そこにいられるのか、存在できるのかといった答えを述べていくことになります。ただし、『まどマギ』ではストーリーの本筋に能動的に影響を及ぼす事物ではないため、まどかによる〈世界〉の再構築のシーンとは対照的な非常に重要な構造を成しているものの、まどかの夢といった処理がされています。なぜまどかがあの夢をみることができたのかという点を考えるのは面白いですが、物語全体から明瞭な答えを見つけることはできません。

 以上、第1話冒頭の巨木が『まどマギ』における〈世界〉の象徴と結論づけましたが、もう一つ、〈世界〉といってもいいものが物語の中に出てきます。

 最終話に出てくる、魔法少女まどかが射るセフィロトの樹のようなピンク色の魔法陣です。

 この魔法陣も、この項目の冒頭で述べたように、セフィロトの樹(生命の樹)に似ているから象徴なのではなく、その描写からそういった象徴であるといえる点に注意しなければなりません。

まどかは魔法陣に向かって矢を放つことで、魔法少女達の魔女化を防ぎ同時にワルプルギスの夜を倒します。本当は、倒したというよりも、その描写や過程から、自壊させたといったほうが適切かもしれません。

 ここでのまどかの行為は魔法少女と魔女にしか影響を与えていませんが、キュウべぇが世界を律する因果律そのものに反逆していると言っているように、あの魔法陣が象徴しているのは、魔女化システム自体ではなく、魔女化システムにも内包されている因果律、つまり〈世界〉だと考えます。

混乱しやすいのは、魔女化システム自体が、エントロピーの増大という熱力学の法則に縛られないエネルギー回収システムでありながら、その過程である魔法少女→魔女という不可逆性が熱力学に当てはまっていることです。それを覆したいというまどかの目的が、契約して魔法少女になる魔女化システムそのものの存在への挑戦に見えるからでしょう。しかし、実際は魔女化を防ぐことであり、第12話でマミが「希望を求めた因果が、この世に呪いをもたらす前に」と言っているように呪いや穢れが希望を求めた因果から生まれてしまう魔女化システムの流れ(これも因果律ですが)は改変しておらず、呪いや穢れが世界に留まるという規定の方の因果律を書き換えています。同「消え去るしか無い」との魔法少女→円環の理という不可逆性に書き換えています。

つまり、魔女化システムはあくまで〈世界〉の内側で因果律を応用して構築されたシステムであり、内包されている因果律を書き換えることで魔女化システムを円環の理システムに変えたということです。

具体的には、まどかが「全ての宇宙、過去と未来」と望んだように、全ての時間、場所、宇宙へアクセスするためにそれらアクセス先を束ねる魔法陣(出現させたか、出現させられたか)を射抜いてアクセスし救済することで、『まどマギ』における世界の因果律を書き換えています。

『まどマギ』における魔法陣とは、世界へのアクセス端末としての位置的な象徴であると同時に、より本質的な、書き換えられる対象としての因果律も含んだ〈世界〉の象徴となります。

 このように、巨木と魔法陣の2つの〈世界〉の象徴を登場させた『まどマギ』ですが、ここで、ユグドラシルの樹(世界樹)やセフィロトの樹(生命の樹)にみられる物語構造上の役割と『まどマギ』という物語における役割とを比較してみたいと思います。ここまでを静的比較とするなら、ここからは動的比較になります。

 ユグドラシルの樹は『北欧神話』に登場するとても巨大な木です。『まどマギ』に登場した巨木とは比べものになりません。ユグドラシルはどこかに生えている木というわけでもなく、主に神々の治める巨大な世界を9つも貫き、さらに内包しているという木で人間の想像力のはるか上を行く大きさで〈世界〉そのものを体現しています。根の先に巨人のいる国があるといった具合です。

 このユグドラシルの樹ですが、『北欧神話』においては、目立った活躍というかそこにあるだけの存在で、実とか樹皮とかが使われるのですが、物語の本筋に積極的に関わることは無いと言っていいでしょう。世界の終焉が間近であることをユグドラシルの樹の震えによって知った神々が恐れおののくといったぐらいです。ですが、『北欧神話』という物語を読み解く上では大切な存在で、〈世界〉の象徴としてそれ以上でもそれ以下でもない点は逆に物語の行く末をわかりやすくしています。

 『北欧神話』は、簡単にいえば〈死と再生〉の物語です。神々の戦争によって世界が没する話です。物語の終盤でユグドラシルの樹が内包していた世界も全てなくなります。ですが、物語の最後の最後に、ホッドミーミルの森という場所で二人の人間が生き残っていて子孫を残していくことが明かされます。神々は死に黄昏の時代になったが、再び〈世界〉は再生してゆくというわけです。このホッドミーミルの森というのは名前こそ違うものの、むしろ名前が違うのは当たり前とも取れますが、ユグドラシルの樹の別称とされています。

 つまり『北欧神話』におけるユグドラシルの樹は〈世界〉を象徴するために登場していて、その〈死と再生〉を描く場面で別の表現たるホッドミーミルの森という〈世界〉の象徴として登場しています。

 これは『まどマギ』における巨木と魔法陣という2つの〈世界〉の象徴の登場の仕方と、世界と人間の対比、世界の再生という点で同じだと考えられます。

このことから『まどマギ』は、『北欧神話』と似たような〈世界〉の象徴を、ただ単に登場させているだけでなく、物語上の役割も符合させていることがわかり、『北欧神話』における〈世界〉の〈死と再生〉と同じ物語構造を有しているといえるでしょう。(まどかが魔女化した際の名前に『北欧神話』に由来する人物の名前が使われています。)

 続いて、セフィロトの樹ですが、セフィロトの樹はユダヤ教・キリスト教神秘主義思想であるカバラに登場する生命の樹です。これは物語としては聖書で楽園から追放される原因となった知恵の樹(林檎と言われていますが聖書には書かれていません)の方が有名ですが、それと対をなす生命の樹は、神秘主義思想のカバラの教義において〈悟り〉と〈世界〉の物語として捉えることができるので考察してみます。

 カバラにおけるセフィロトの樹とは、世界を神(唯一神エイン・ソフ)がもつ聖性の流出の結果として捉え、その過程を象徴図として表したもので、樹とは呼ばれますがユグドラシルの樹とは違い、場所や空間を重視する〈世界〉の象徴というより時間や認知(精神)を重視した〈世界〉の象徴として機能しています。この辺が場所としての〈世界〉を重視して象徴する『北欧神話』のユグドラシルの樹と違い、宗教的・思想的・オカルト的な広がり方をした原因だと思います。

 カバラなどの神秘主義思想の目的は、文字通り、神によって秘められたものを理解する・感じるということです。神の部分はそれぞれの宗教の神ですし、場合によっては、唯一神ではなく宇宙の究極的根拠といった概念そのものになります。ちょっと怒られそうですが、数学や物理学の真理に近いものといえるでしょう。まぁ、カバラにおいては神エイン・ソフです。

 その秘められたものというのは、言い換えれば、真理・生きる意味=〈悟り〉ということになります。

カバラは〈世界〉というセフィロトの樹の象徴するものを理解することで神の意志を見つけられるとしています。後にオカルト的な展開がされる時代では、その神の意志を見つける行為=〈悟り〉そのものが〈世界〉と共に位置づけられるとして、セフィロトの樹にダアトと呼ばれる位置を新たに書き加えています。(この〈悟り〉を重視して『まどマギ』の魔法陣を解釈すると、魔法少女となったまどかが射た部分はセフィロトの樹で言えばダアトと呼ばれる位置にも見えてきます。個人的には、ティファレトとダアトの両方の意味が掛け合わさった『まどマギ』特有の魔法陣の位置だと思いますが。)

ここでは、〈世界〉を理解することで〈悟り〉というものを得るその構造に注目したいと思います。それが正しい思想かどうかは問題にしません。

『まどマギ』において〈世界〉としての魔法陣が出てくるのは最終話で、これを射ることによってまどかは魔法少女の救済とともに概念世界へと固定されてしまいます。

この行為の最中にまどかは「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます」と生きる意味の肯定的な〈悟り〉を告白しています。また、その前に「私、やっとわかったの。叶えたい願い事見つけたの。だからそのために、この生命使うね」と具体的に目的のために自身の生命を使うという生きる意味に該当することを述べています。こういった肯定的な〈悟り〉の素養は、第10話で自身を殺してでも魔女化を防ぎ〈世界〉を守るようまどかがほむらに頼んだことからもわかるように、まどかが持つ特別な心の才能といえると思います。

その才能が開花したことが最終話のまどかの弓のギミックに象徴されているのでしょう。

この考察の全体における〈この世は生きるに値する〉というまどかの生への肯定は最終話の「希望を抱くのが間違いだなんて言われたら、私、そんなのは違うって、何度でもそう言い返せます。きっといつまでも言い張れます」というセリフに象徴されます。

 但し、〈世界〉について理解していたかというとこの点は疑義が呈されます。なぜなら、カバラにおける〈世界〉とは神の創った肯定的なものですが、一方、〈悟り〉を得たまどかは現状の〈世界〉を拒否し、〈世界〉を再構築するからです。

これが、〈世界〉と〈悟り〉という同じ構造を持つ、セフィロトの樹の教義を物語として考えた場合に得られる構造と『まどマギ』の物語の構造のベクトルの違いになります。ただ、まどかの〈悟り〉が象徴している「希望」に関する真理を〈世界〉を理解したことで得たとしたり、第10話で殺されてでも守る価値があることを〈世界〉を理解したことで得たと捉えれば、半分当てはまっているともいえるでしょう。

以上、セフィロトの樹が持つ物語的な構造との比較を通して『まどマギ』が、そのベクトルは半分ほど違うものの、〈世界〉と〈悟り〉の構造も持つ物語であるということが分かりました。

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