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南京事件時の2,30万人の大虐殺の嘘

ライターさん(最終更新日時:2013/10/21)投稿日:

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南京事件時の2,30万人大虐殺(南京大虐殺)は明らかな捏造、歪曲

1972年に朝日新聞の本田勝一が捏造、歪曲したものです。因みにこの本田勝一は中国から表彰を受けています。


※日中記者交換協定を結んでいたため、中国共産党の幹部の証言をそのまま本田勝一は記事にしました。中国共産党は文化大革命(以下文革)の7000万人の大虐殺を隠すために反日意識を高め、国民の目を文革から反らすための南京大虐殺のねつ造だったと言われています。

※日中記者交換協定について

 

中国人記者が石原氏に大暴露
https://www.youtube.com/watch?v=IOH2_O7pf6U

日中双方の記者による交換メモ

http://ja.wikipedia.org/wiki/日中双方の新聞記者交換に関するメモ

 

満州事変、南京事件の下記の資料を参照

 

                                   満州事変当時の中国兵の実態

ハルビンでは次のような話が信用できるものとして流布していた。すなわち兵士の多くは、いつでも変えられる2種の腕章を持っている。彼らはあるときは、吉林軍すなわち「満州国」軍のしるしをつけ、また他の時には、反吉林軍、すなわち「満州国」軍および日本軍と敵対する中国軍のしるしをつけているというのだ。

ここで問題になるのは伝統的な中国兵のあり方である。昔から中国に長いこと居住する欧州各国人の話によると、兵士は圧倒的に下層階級出身者が多かった。彼らは兵士も職業の一つと見なしていた。

給料は月に2,3ドルに過ぎず、生計を保つのは難しく、金持ちになるためには戦利品を略奪するのが一番簡単であった。上流社会の中国人は一般に兵士を見下し、自ら軍隊に入ろうとはしなかった。古くからの考えによれば、軍隊に入るのは恥ずかしいことであった。

(「満州国」見聞録リットン調査団同行記/ハインリッヒ・シュネー)

中国の家では昔から、できのよい子を一人選んで教育を受けさせた。勉強だけすればよく、家事などは一切免除である。そこで、肉体労働を「頭の悪いものがやる仕事」と極端に嫌う学者が育つという仕組みだ。金で解決できないものは無い、となる。兵役は最低の仕事である。むかしから「良い鉄は釘にしない。良い人間は兵にならない。何になっても良いが、兵隊にだけはなるなよ」と言われる。中国軍を見ると妙に納得できる。

(暗黒大陸中国の真実/ラルフ・タウンゼント)

それでは実績のある軍に入ったらどんな良い目ができるだろうか。殺し文句はこうである。「一つ町を手に入れたら略奪は思いのまま、女も思いのまま」

これが中国人が考える「ロメオとジュリエット」である。これを目当てに新兵さんは鉄砲を担ぐ。鉄砲が「食券」だ。さらに、遅れ気味ではあっても、寝返り防止に数ドルお手当ももらえる。大義名分まであるから言うこと無し。ただし、中身は学生のスローガンと何ら変わらない。お題目は立派でも悪事を働くのには変わりない。

(暗黒大陸中国の真実/ラルフ・タウンゼント)

戦がまたいかにも中国的である。最後まで戦うことはまず無い。戦闘参加人数に対して、戦死者は驚くほど少ない。たとえば、それぞれ5万人の兵力がぶつかる戦では、2,3百人ほどの戦死者が出たら「勝負あった」となる。兵士には敢闘精神が無い。日本人や欧米人とはちがって、「闘争心」や「何が何でも勝利を」と言う気迫が無い。

相手を倒そうという目的が全くない。所詮、食うためにたまたま軍隊に入ったのだから、弾に当たって命を落としたら元も子もない。

両軍ただにらみ合うだけである。もちろん前線では小競り合いがあり、犠牲者も少々出るが、本隊は相手が自陣に攻め込まない限り、数ヶ月ものらりくらりして、本格的攻撃はしない。

(中略)

もちろん3百万もの人間が戦えば(3百万とは大げさだが、理論的にはいくつもの集団が集まって戦闘に参加するのだからこういう数字になる)、多くの死者が出る。

ところが兵隊の死者はごく少ない。ほとんどは戦場となった地域の住民である。しかもほとんどが餓死である。米粒一つ残らず「友軍」に奪われるからである。

(暗黒大陸中国の真実/ラルフ・タウンゼント)

南京戦については中国兵について

「この人間挑発は「拉夫」「拉丁」と言い、逃げ遅れないように遠く離れた地方の農村を突然襲い、年頃の男性を捕らえて連行してくる、と言った乱暴な方法だったらしい。」

本当はこうだった南京事件/板倉由明より

当時の中国兵にとっては略奪・強姦などは当然の報酬だったのである。

安全区掃蕩 数千の敗残兵が区内に潜伏

本当はこうだった南京事件/板倉由明より

昭和21年7月26日、東京裁判で、許伝音証人は、12月14日朝8時頃委員会本部でおこった「事件」を証言した。フィッチも14日朝陸軍大佐が来たことを日記に記している。用件は安全区の捜索をする許可を求めたのだが、許氏はラーベ、フィッチと3名で応対し、その申し出を、ここには「武器を携帯している中国兵士はいない」と断ったと証言している。(中略)

筆者は、安全区の掃蕩が、必要以上と思われるほど過酷なものになった理由の一つは、この敗残兵捜索の拒否にあると思っている。日本側は利敵行為と反感を持ち、掃蕩を強行した。事実、数千の敗残兵が高級将校を含めて区内に潜伏していたのであり、膨大な武器弾薬が発見されたのだから、ゲリラ戦の準備中、と判断されることになる。

(中略)

政府に見捨てられる貧民のため、外国人たちは国際委員会を組織し、難民区を作り、ここを中立地帯として、非戦闘員の避難所にしようとする(11月19日)。

ドイツ大使館のローゼン書記官はその報告に「中国当局は民衆の保護について全く関心が無かった」と記しているが、政府職員は一人も残留せず、一般民衆の保護は外国人たちに任されてしまった。中国当局は呼吸の宝物1万5千箱の輸送には懸命だったが、、、

(中略)

 

【ドイツ大使館報告一続】

暴徒化した中国軍は安全区全体に広がり多数の者が軍服を脱ぎ市民から便衣を奪い、あるいは下着になって残された唯一の脱出路下関に急いだ。軍服とともに武器も放棄され交通部の前あたりの街路は軍装品で埋まった。夜半この市内でもっとも立派な建物に火が放たれ、内部に貯蔵してあった弾薬が何時間も爆発を続け、よく13日夜まで燃え続けた、、、

(引用終わり)

 

再審「南京大虐殺」より

安全区委員会は「安全区に中国兵はいない」と断言し、日本軍による安全区捜索を拒んだが、実際は大量の中国兵を匿っていた。このため日本軍(歩兵第七連隊の約千六百名)が捜索したところ、小銃九百六十挺、同弾薬三十九万発、手榴弾五万五千発など大量の武器・弾薬を押収すると共に敗残兵七千名が潜伏しているのを発見、逮捕した。その後も安全区で不審火などが相次ぐため、十二月二十四日から翌年一月五日まで、安全区の住民を対象に兵民分離工作を実施したところ、多数の武器弾薬とともに将校率いる約二千名の中国軍兵士を発見、逮捕している。

(引用終わり)

 

再審「南京大虐殺」 指揮官の命令で組織的に武器を所有したまま潜伏した部隊もあった。明らかにゲリラ活動の準備を安全区で進めていたのである

安全区委員会委員長ラーベは十二月十八日付の南京日本大使館宛「第九号文書」において「問題なのは、安全区を捜索する日本軍将校の精神状況であります。

彼らは、当所は『便衣兵』で充満している、と考えているのです。十二月十三日の午後、武器をすてて安全区内へ入ってきた中国兵の存在については、既に再三あなた方へ通知してあることであります。しかし、現在では、地区内には武装を解除した中国兵の集団が一つとして存在しないことは、まちがいなく保障できます」

(「南京安全地帯の記録」『南京大残虐事件資料集 第二巻』一三〇頁)と、日本軍の掃蕩作戦を非難している。

ところが、ラーベは二月三日付目記に、上海のアメリカ人が発行している一月二十五日付『大陸報(チャイナ・プレス)』を転載し、安全区に中将を筆頭に約二千名近い将兵が大量の武器を保有したまま潜伏し、ゲリラ活動を展開していたことを間接的に認めている。『大陸報』の要旨は以下の通り。

「中国の将校が隠れていた!」

報道によると、高級将校が外国大使館に隠れていた。十二月二十八日に安全区で摘発、高級将校二十三名、初級将校五十四名、下士官、兵一千四百九十八名。

南京保安隊長は難民区四区の工作を指導、八八師副師長馬宝山中将と警察局高官もいた。馬将軍は反日感情と動乱を扇動、王新堯保安隊長は部下三名と掠奪強姦、市民に対する脅迫をしていた。また発見された武器は、大砲一基、チェコ製マシンガン二十一丁、ライフル五十丁、手榴弾七千発などである」

(The Good man of Nanking 一七二-一七三頁)なお、ラーベ日記の日本語版はこの部分を削除している。

(引用終わり)

 

1938年1月4日ニューヨーク・タイムズ

「南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一名とその部下の将校六名がそこでかくまわれていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで二番目に権力ある地位につけていたのである。

この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。

この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底検証』p.275)

 

 

南京攻防戦の概要:南京放棄論を拒否し、堅壁清野作戦を命じた蒋介石

当時の南京は、周囲を高さ十二メートル、厚さ六~十二メートルの城壁に囲まれた総面積約三十五平方キロの城塞都市であったが、十一月十四・十五日、国民政府は作戦会議を開き、この南京で日本軍と戦うか、それとも南京を放棄して他の場所で戦うかを論議した。席上"南京放棄論"が多数を占めた。

同席したドイツ軍事顧問団団長のファルケンハウゼン将軍もこれに賛成したが、蒋介石はあくまでも南京を固守するという防衛方針を決定した。

蒋介石は唐生智を南京衞戍司令長官(軟禁防衞軍司令官)に任命し、さらに、城壁を堅固にし、城外の同国人の財産・家屋を焼き尽くして敵に一物も与えないという中国伝統の「堅壁清野作戦」を命令、中国軍は南京城近郊の建物や民家が日本軍に利用されないように、これを徹底的に破壞・焼却した。

そして十一月十五日、蒋介石は首都を南京から重慶に移すことを決定、十六日にこれを宣言するとともに、一切の政府機関は南京から撤退するよう命じた。

国民政府の要人たちは二十一日までに南京を出発、次いで二十七日には南京在留外国人に対して避難勧告を発した。政府高官は車に満載した家財道具とともに先を争って南京から脱出し始めた。

城内には南京防衛の中国軍将兵と脱出する術のない難民が残された。

この難民を保護するために、南京に残留する十六人の民間の欧米人たちは十一月二十二日に「南京安全区国際委員会」(以下「安全区委員会」と称する)を結成、南京城のほぼ中央部の縦二マイル、黹}イルのやや菱形に似た一角を「中立区」(後に「安全区」と呼ぶ)に準備した。その面積は約三・八平方キロ、南京市の十一%を占め、ニューヨークのセントラル・パーク(三・四平方キロ)とほぼ同じ面積である。

十二月一日、安全区委員会(ジョン・ラーベ委員長)は、中国軍当局及び日本当局に対して「安全区」を尊重し、そこを攻撃しないよう申し入れた。上海でフランス人神父が設定した「安全区」についてはフランス軍の協力もあったため日本軍も承認し、攻撃を控えたからである。

しかし、中国軍の唐生智司令官は、アメリカ政府やドイツ政府の公認組織でもない一民間の安全区委員会の要望を無視し、別途「難民区」を設定し、高級住宅街である「新住宅区」に難民をすべて収容する方針を決定、防衛軍の一部を派遣し、収容組織を決定した。

また、日本当局も次のような理由から申し入れを承認しなかった。

一、安全区の境界には要所に目印が立てられただけで、鉄条網などで仕切られているわけではないから、中国軍将兵が簡単に侵入できる。

二、安全区には中国軍将校の住宅が多く、そこに多くの将校が潜伏している恐れがある。

三、上海では、フランス軍の駐屯部隊が敗残兵などの立ち入り防止・武装解除といった"好意的協力"を惜しまず、中立性が維持されたが、武力をまったく有しない南京安全区委員会には敗残兵の立ち入りを防止できるはずがなく、中立性を保つ保証がない。

先述したトラウトマンによる和平交渉が実らず、停戦合意が成らなかったため、奇しくも安全区委員会が申し入れを行った同じ日である十二月一日、日本軍は南京を攻略することに決定、九日には国際法学者とも協議して作成した「攻略要領」に基づき、「和平開城の勧告文」を飛行機で城内に散布した。

国際法に則って“無防備都市”つまり「防守都市に非ず」と宣言して開城すれば攻撃しないと中国側に通告したのである(第二次大戦におけるパリがその例で、これによってパリは破壊を免れた)。

しかし、翌十日午後一時の回答期限に至っても何の回答もなかったので、日本軍は総攻撃に踏み切った。南京城外に中国軍が設けた主要な抵抗陣地で激戦が展開され、日本軍は十二日までに郊外の要衝(紫金山・雨花台・工兵学校など)を占領、その日の午後八時には唐司令官は麾下の軍に退却命令を出すとともに、自らも幕僚とともに脱出した(蒋介石は十二月七日早朝、南京を脱出している)。このため、中国軍は総崩れとなり、十三日未明、日本軍の一部は城内突入に成功した(日本軍は形式的には安全区に関する安全区委員会の申し入れを拒否したが、激戦が予想されたにもかかわらず、中山陵などの史跡とともに安全区にも出来るだけ被害が及ばないよう配慮した)。

中国軍は城内各所に鉄条網を張り、地雷を埋め、機関銃を据えて徹底抗戦の構えを見せたため、日本軍は激しい市街戦は避けられないと予測していたが、中国軍の抵抗は弱く、城内では市街戦はなかった。このため、十三日午後十時、上海派遣軍司令部は「南京完全占領」を声明した(城外では十四日午後まで敗走する中国軍との間に戦闘が続けられていた)。

日本軍が危惧したように、安全区委員会が安全区の中立性を守るためにそこからの中国軍の撤退を繰り返し要求したにもかかわらず、撤退しなかったばかりか、中国軍将兵の多くは市民に偽装し、武器を携行して安全区に逃げ込んだ。いわゆる「便衣兵」(便衣とは戎衣=軍服に対して平服を意味し、便衣兵とは国際法上、戦闘資格を有しない「私的狙撃兵」のことを指す)となったのであるが、依然として正規兵であることには変わりがない。

このため、日本軍は「中国軍はゲリラ戦を準備中」と判断し、敗残兵摘発を目的とする掃蕩作戦(占領地の治安を確保するため降伏しない敵兵を発見し逮捕・拘束すること)を十三日早朝から十六日まで四日間にわたって南京城の内外で実施することになった。掃蕩に際しては担当する部隊に対し「外国権益保護」「略奪・放火の厳罰」を命じたほか、「青壮年の男子は敗残兵の恐れがあるので、逮捕・監禁する」とともに、「それ以外の戦意のない市民は寛容の心を持って接する」よう命じている。日本軍は十六日夜までには敗残兵を一通り逮捕するとともに、本来非武裝であるべき安全区において大量の武器・弾薬を鹵獲し、翌十七日に入城式を行った。十二月十日の総攻撃開始以来、掃蕩作戦を含めて僅か七日間で南京は日本軍に制圧されたのである。

しかし、安全区にはまだ中国人将兵が多数潜伏していることが予想されたので、十二月二十四日から翌年一月五日まで日中合同の委員会によって「兵民分離工作」を実施した。これは安全区に居住する青壮年の男子を対象として、体格・服装・言語の違い(中国では地方ごとに言語が大きく異なり、出身地の違う者同士では言葉が全く通じなかった)などを目安にして兵士と市民を分離するもの。

その結果、同査問委員会は、婦女子や老人・子供を除く成年男子十六万人に「居住証明書」を交付するとともに、中国軍将兵約二千人を逮捕して日本軍に引き渡した。

一九三八年一月一日、九人の中国人委員によって構成される「南京自治委員会」が発足し、治安の回復とともに行政の実務は同自治委員会の手に移された。その後、自治委員会は発展解消し、三月二十八日、「南京維新政府」が成立した。

(再審「南京大虐殺」/竹本・大原より)

 

参考サイト こちらを参考にさせていただきました

http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-257.html

ファイル0027003.jpg

写真は記者団と会見する陶会長(昭和十二年十二月二十三日)「アサヒグラフ」(朝日新聞、昭和13年1月19日発行) 
ファイル0027004.jpg

                日本兵と楽しく会話をする南京市民
日本兵から菓子をもらって喜ぶ南京の家族.jpg

             日本兵からお菓子をもらって喜ぶ南京市民

 

この2枚の写真から南京事件当時2,30万人の大虐殺があったとはとても思えません。
もっと詳しいサイト 中国軍が行った虐殺まで日本軍がやった事されています
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/nankingmj.htm
仮に日中両軍が殺した市民の犠牲者合わせても2,30万人という数字はありえないです。

 

南京大虐殺記念館にある証拠写真は捏造写真だった!!

この写真1937年7月29日に中国が通州にいた日本人を虐殺した通州事件の写真です。

https://www.youtube.com/watch?v=a3lMqHrhVIo

目を切り抜き、はらわた引き出す文化は日本にはない

 

南京大虐殺証拠写真を検定

https://www.youtube.com/watch?v=L-NLZDIFlfA

いきなり1976年から本田勝一が作った話

 

注意

  • 中学、高校の一部の歴史教科書になぜ出鱈目が載るのか?
  • 歴史教科書検定は近隣諸国条項と言う中韓などに配慮した教科書検定となっており、中韓がOKしないと教科書検定が通らないので中国、韓国が捏造、誇張、歪曲した歴史が載ってしまいます。
  • また、日教組が教科書検定に圧力を掛けています。
  • http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n136820
  • 日教組のせいで在日は強制連行の被害者、外国人に参政権がないのは差別と掲載される出鱈目教科書になっています。

 

ポイント

  •   しかし、便衣兵の投降兵、捕虜を裁判なしで数千人処刑したことは国際社会から戦後非難を浴びました。
     上記には書いてませんが南京陥落後、日本兵が427件の殺人、強姦、放火、略奪(うち49件が殺人)をしました。
     最近の日中の研究家は双方でも少なくても数千人、南京大虐殺があったとしても多くても10万人の大虐殺と見ていて2,30万人の大虐殺はなかったという日中の専門家の共通の見解です。南京事件当時の人口が20万人なので日本軍が南京市民を2,30万人を殺すとはあり得ない数字です。
     むしろ中国兵の方が非人道的だったことは明らかで中国兵が中国市民を日本兵以上に虐殺しています。中国兵が虐殺した中国市民を日本兵が虐殺したかのような捏造写真まであります。


 

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