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古代史のノート、古代王権の秘密(関裕二著作より)

ライターさん(最終更新日時:2013/5/23)投稿日:

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邪馬台国の真実、ヤマト建国のシナリオを、いったい誰が最初に発表するのか、秒読み段階に入っているといっても過言ではない。それにもかかわらず、もたもたしているのは、史学会の大御所に対する“はばかり”があるからではないか、と勘繰りたくなるのである。けれども“歴史”がひっくり返るのは(正確に言えば「元に戻る」だろうが)、確実にあと一歩のところまできている。

 

正史『日本書紀』は朝廷の正式見解だからこの文書が嘘をつくはずがない、という前提は既に崩れているのであり、『日本書紀』のどこが嘘で、どこが本当なのかを見極める必要があろう。

 

明治維新とヤマト建国の共通点は

どちらも天皇家を待ち受ける東側の政権が、そろいもそろって、天皇家に無条件に権力を禅譲している、という事である。

 

徳川慶喜は大政奉還を宣言し、新政府軍は江戸城に無血入城を果たす。

かたや神武天皇東征のみぎり、ヤマトの王として君臨していた物部一族は、神武に恭順の意を示し、王権を譲っている。

 

天皇の東進と東北の反発という共通の図式もある。

新政府軍の江戸入りに対し、旧幕臣を中心とする彰義隊が組織され反発し、上野、さらには越後・東北・北海道へと戦火は拡大していくが、神武東征の時も、ヤマト土着の長髓彦等の強固な反発があった。

 

そして”天皇“が東進する直前の日本列島が、どちらの場合も小国の分立状態にあった、という点も共通する。

 

これはよく指摘されることだが、日本人は大衆に呼びかけをする際、「紳士淑女諸君」とは言わず、「東西、トーザイ」というのである。

つまり、古今東西の日本人にとっての“日本人”とは、東と西に対置された人間群をさしていたのであって、天皇家の西から東への移動とは、すなわち、このような東と西、それぞれの列島人の融合を促進していったのではないかと思えてならないのである。

 

事実、日本列島には、古代より連綿と続く二つの文化圏があり、今日に至っても、その境界線は容易に消えようとはしない。それは、名古屋から富山付近を結ぶラインであり、この境界線の東西で、方言・風習・嗜好といった、ありとあらゆる文化の差が見られる。

 

イザナギ・イザナミという始祖神も『日本書紀』や『古事記』は、対立する存在として描いていた。

八世紀の朝廷が、イザナミを対立する概念と捉えていたからであろう。

黄泉の国の入り口が出雲にあったとするのも、イザナミを天津神(=天皇家の神)と敵対する出雲神と近いことを暗示するためであったはずである。

 

出雲神はスサノオ以下、地上界で国造りに励むが、後に高天野原の天津神から国譲りを強要され、それを受け入れている。

 

ところで、このような神々の世界における二つの日本という図式は、“神と鬼”“善と悪”という形でも表現されている。

イザナミの手先となってイザナギを追った泉津醜女八人の名にある“シコ”は、“鬼”を指す言葉で、さらに『日本書紀』は、出雲の神々をさして「邪(あ)しき鬼(もの)」と呼んでいるが、シコ同様“モノ”も鬼を意味し、出雲の神大物主神の“もの”も、鬼の意味であった疑いが強い。

 

つまり、神々の中にも、善なる“神”と、悪役の“モノ(鬼)”がいたわけで、ここに、『日本書紀』の明確な意図が読み取れるのではあるまいか。

 

“モノノフ”の語源は三世紀後半から八世紀に至る大和朝廷最大の豪族で最大の軍事力を持った物部氏の「物部」が、いつの頃からか“モノノフ”ともよまれるようになり、これが武人の代名詞となった。

この「モノノフ」物部氏の軍事力が他を圧倒し、天皇家でさえ怖れていた節があるのは、『日本書紀』も認めるように、物部氏が天皇家より古いヤマトの王者だったからに他ならないのだが、物部氏の存在は二つの日本という現象を読み解く上で、重要なカギをも握っている。

『日本書紀』によれば、初代神武天皇がヤマト入りの際、そこには既に物部氏の始祖・ニギハヤヒがいて、天皇家に王権を禅譲したという。

ニギハヤヒは神武のヤマト入りに猛烈に抵抗した長髓彦の妹を娶ってヤマト王権を握っていた人物である。

王権の禅譲に対し神武は、ニギハヤヒを誉めて寵愛したという。

 

神武は九州を出発してからヤマト入りするまで、つねに影とも言うべき何者かによって助けられている。しかもそれは、本来敵対していたはずの国津神や、魑魅魍魎としか言いようのない者たちの加勢である。さらに、ヤマトに王権を開いたのちの天皇家でさえ、とても独裁者とは思えぬ立場に立たされている。神武(征服王)が、城を持たなかったことも不可解だが、ヤマトを守る最大の拠点、ヤマト西方の生駒・葛城山系にまったく手をつけられず、土着の豪族に占拠されていたのはなぜだろう

 

八世紀に成立した『日本書紀』の主張は、大和朝廷発足当初から、“天皇家”がヤマトの絶対的権力者であったという事だから、ヤマトの共立された大王家という実体を改ざんする必要に迫られたに違いない。そしてそのために最も大切な事は、天皇家と対等か、あるいはそれを上回っていたのではないかと思われる勢力の存在をいかに矮小化するか、という事である。

 

そして、ここからが大事なのだが、この『日本書紀』の歴史工作の涙ぐましい努力は、かえって天皇家の“政敵”の“強さ”を証明しているようにも思えてくるのだ。

 

『日本書紀』ではニギハヤヒの出自を天津神とするのみだが、積極的に天皇家とつなごうともしない姿勢は腑に落ちない。

“天の磐船”という天皇家にはない“乗り物”でヤマトに舞い降りたというニギハヤヒについて、“天皇の絶対性”を証明しようとする『日本書紀』がその出自をもみ消す事はかえって当然のことだったようにも思えてくる。

 

物部氏も出雲も、天皇家より先にヤマトに入っていた事で、出雲がヤマトを“造成”していた、と『日本書紀』が認めている点は無視できない。(大物主神のいう「ヤマト成す大物主」を認めている)

 

神話の世界で天津神の敵として『邪(あ)しき鬼(もの)』とののしられた出雲神と、鬼の一族・物部氏が、本来同一で、天皇家以前からのヤマトの正当な王者であったとすれば、天皇家の正当性のみを証明するための『日本書紀』が、物部氏の正体を抹殺するために、神話の中で、物部氏の祖神を出雲神に仕立て上げ、両者の関係を断ち切ったであろうことは、想像に難くない。

 

物部氏が神道と密接な関係にあった事は、中臣氏や忌部氏といった神道に携わる代表的な古代豪族のどちらもが、神武天皇とではなく、物部氏とともにヤマト入りしていたことからも察せられる(『先代旧事本紀』)

 

ヤマト建国と前後して、四世紀に前方後円墳というヤマトの文化を東日本が受け入れるなど、“ヤマト”を東日本が選んだのは、西日本からの大量の移民があったかららしい。

ところで、この入植者たちが、決して征服者ではなかったことは、両者が衝突した形跡がないこと、しかも入植者の定住地には法則性があり、それまでの東国の人々では開墾できなかった場所を選び、住み分けを果たし、さらには、新たな技術を持ち込んだことで東国に繁栄をもたらした、という事なのである。

 

四世紀以降七世紀に至るまで、東日本はヤマト朝廷に完全に支配されていたわけではなく、一つの政治勢力か、半独立国であったかのような動きを示していたが、この東日本と出雲が、目に見えぬ糸で強く繋がっていた事に注目する必要がある。

 

古代東国の盟主は北関東に地盤を持った上毛野氏(かみつけのし)で、彼らはヤマトの三輪山と深くかかわり、出雲神を祀っていたのである。

 

問題は、出雲系豪族や出雲神達が深く東国に関わり、しかも開拓者としての伝承、文化伝播ルートの重なりという一致を見せるだけでなく、『日本書紀』が、出雲神建御名方の存在を黙殺し、さらに尾張氏と出雲(物部)の関係を意識的に断ち切っている事にある。

※建御名方神は『古事記』によれば出雲国譲りに際し、国の明け渡しに最後まで抵抗したとされる神で、天津神に追われ、信州の諏訪に逃げた、とされる。この神は“逃亡先”の信州で開拓者としての濃厚な伝承を残している※

 

つまり、“東国の出雲”は『日本書紀』にとって、何としてでも抹殺しなければならぬ重大事であったと見なす事が出来るのである。

 

神武のヤマト征服という『日本書紀』の大前提が崩れ去ってしまうからである。

 

『日本書紀』が『魏志』倭人伝の記事を引用しておきながら、卑弥呼の名を隠匿し、ヤマト朝廷と邪馬台国の関係を黙秘してしまったのは、どうにも解せないものがある。

これが、『日本書紀』による卑弥呼隠しとすれば、その動機を探る事で、逆に卑弥呼の正体があぶりだされ、ひいては、邪馬台国のおおよその地理も浮かび上がってくるのではあるまいか。そして導きだされた一つの仮説が、ヤマトと九州の二人の対立するヒミコなのである。

 

伊勢神宮は皇祖神天照大神を祀る日本で最高に重要な神社である。

この伊勢神宮は内宮と外宮に別れ、天照大神は内宮に、そして外宮には豊受大神が祀られている。しかし、『日本書紀』ではこの朝廷にとって最も重要な伊勢神宮の祭神の一柱、外宮の豊受大神について一言も触れていない。

つまり、正史を読む限り、豊受大神なる神の氏素性が定かでない事になってしまうのである。

 

『日本書紀』では最初、天照大神は、大日孁貴尊(おおひるめのむちのみこと)という名で登場している。この名の孁は一字で“巫女”の意で、天照大神が本来太陽神を祀る巫女であったことが露見しているだけではなく、大日孁貴尊は大日巫女尊となり、日巫女=卑弥呼説を補強する結果にもなる。したがって、天照大神が卑弥呼の神格化されたものであったとする説を、支持せざるを得ない。

 

『日本書紀』神代第七段にも、天照大神が太陽神ではなく巫女であったとしか思えない決定的な記述が残されている。

それは、ちょうど高天原でスサノオが暴れまわっている時のこと。

 

天照大神の、方(みざかり)に神衣(かむみそ)を織りつつ、斎服殿(いみはたどの)に

居(ま)しますを見て

 

と、天照大神が神衣を織っていた、とある。この神衣を織る行為こそ、じつは、太陽神や男性神を祀る典型的な巫女の仕草だったのである。

機織りの巫女には、水辺で尊い人(神)を待ち、現われると禊を勧める、という行動をとる。

 

『丹後の風土記』逸文は、豊受大神の降臨説話を、世に名高い『羽衣伝承』として記録している。羽衣を盗まれた一人の天女がこの地に残り、これが豊受大神であったという伝承である。

興味深いのは、豊受大神が神衣(天の羽衣)や水と深いかかわりがあった事にある。

 

天照大神も豊受大神も本当は巫女であったとなると、伊勢神宮では太陽神を祀る巫女が、内宮と外宮に一人ずついたことになる。

 

ここで冷静になってみれば、二つの日本、九州の神武、ヤマトのニギハヤヒが“ヤマト”を構成した二大要素であったとしたら、二人の太陽神、二人の日巫女という図式を想定出来る事に気づかされるのである。

つまり、二つの勢力のそれぞれの太陽信仰がヤマトで習合したとすれば、これが伊勢神宮の二人の日巫女という現象に変化したのであって、片方の日巫女について『日本書紀』が沈黙を守った事の意味が、少しは明らかになるのではあるまいか。

 

大物主神に寄り添うかのように三輪山の麓にある箸墓の主が台与(とよ)であった疑いが強いこと、大物主神(ニギハヤヒ)を祀る巫女が、伊勢神宮や丹後半島の元伊勢・籠神社では、トヨウケ大神と呼ばれていた事は、はたして偶然なのであろうか。

 

『日本書紀』は、西暦七二〇年に編纂された歴史書で、この少し前、西暦七一〇年に、物部氏出身の最後の大物政治家、石上麻呂は、藤原不比等の陰謀によって失脚させられ、古代最大の豪族である物部氏は、ここに没落するのだが、『日本書紀』の編纂がこの機を待っていたかのように製作されたのは、『日本書紀』が物部氏の大きさを消し去るための歴史書であったからであろう。

 

 

『日本書紀』の中で、他のどのような天皇にも与えられなかった、最も過剰に美化され礼賛された聖徳太子なる人物の業績については、極めて曖昧にしか記録されていない事をどう判断したら良いか。

そして、太子を聖者と称える一方、太子の死については、何の予兆もなく、推古二十九年の春二月五日の夜半、斑鳩宮で薨去した、とするのみなのである。

 

興味深い事実は、当時の蘇我氏に対する民衆の“支持率”の高さ、である。

そして入鹿暗殺後実権を握った中大兄皇子らの行動に対する、民衆の“支持率の低さ”である。このような民衆の意志が太子を取り巻く多くの謎と、どのように関わってくるのであろうか。

 

蘇我氏の祖は物部の女人からである。通説はこの系譜を認めないが、もし、『日本書紀』が蘇我氏の祖について“通説通り”渡来人であったならば、その事実を明記し、天皇家を滅ぼそうとしたエイリアンと決めつけ、罵倒していたに違いない。それができず、出自を全く語る事が出来なかったのは、むしろ蘇我氏の系譜が正当なものであったという疑いが強まるのである。

三世紀後半から四世紀初頭にかけて誕生したヤマト朝廷は、天皇家の一党独裁ではなく、西日本の四つの地域が結束し、これに出雲がまとめ上げた東日本が加わって、天皇を共立した、いわば合議制国家なのであった。ところが五世紀になると朝廷に転機が訪れる。

半島の紛争に積極的に軍事介入してゆくことで、ヤマトの代表者・天皇が称号を得て、対外的に名が知られるようになると、次第に権力への執着が芽生え始めた気配がある。虎の威を借りて、王家の強化を計ろうとしたのであろう。

 

五世紀後半に出現した雄略天皇は多くの皇族を殺して王位を獲得するが、その過程で、この当時の最大の豪族、葛城氏が滅ぼされている。(葛城氏は武内宿禰を祖とする蘇我一族であった。)

やがて五世紀末、さらに暴君の武烈天皇の登場により、ヤマト朝廷の信頼はいよいよ失墜する。即位の直前、蘇我系平群氏は、武烈に滅ぼされている。

武烈天皇に子がなかったため、その死後、北陸の地から継体天皇が擁立される。

 

継体天皇の背後には、尾張から北陸に勢力を伸ばした尾張氏がいて、この一族が物部氏と同族で蘇我氏との交流は深かった。

 

蘇我氏と天皇家の抗争の歴史の法則は、豪族主導の政局運営を目論む蘇我氏と、権力志向の天皇家の出現による摩擦といえようか。

雄略・武烈という暴君の出現によって蘇我氏系豪族が倒され、どちらの天皇も民衆には人気がなかった。

そしてこの図式を、入鹿と中大兄皇子に当てはめてみると、そのままそっくり歴史は繰り返されていた事に気づくはずである。

 

蘇我氏を罵倒し続けた『日本書紀』であるが、思わぬところでボロを出し、蘇我氏の“正しさ”を証明している。『日本書紀』は、乙巳の変の後、入鹿暗殺現場に居合わせた皇極天皇(重祚して斉明天皇)の周辺に、祟る鬼が出現していたと記している。

斉明元年五月の条、そして斉明七年五月には鬼火が現れ、斉明天皇近侍の者たちが次々と死んでいったといい、直後の七月には斉明自身もなくなり、その葬儀の様子を、大笠を着た鬼が覗き見ていたという。

中臣鎌足の死は天智天皇八年(六六九)十月、その死についても『日本書紀』はその一月ほど前に鎌足の家に落雷があったと記録している。たかが落雷なのに、『日本書紀』が記録からはずせなかったのは、菅原道真が雷となって恨みを晴らしたように、古来雷は祟りの証だったからである。そこには鎌足だけでなく、朝廷自身の脅えが現れている。

人々はその鬼を蘇我氏と断定し、蘇我氏の鬼をこぞって恐れるのは、それらの者に蘇我氏に対して後ろめたい意識があったからで、祟りとは祟られる側の罪の意識の裏返しなのである。

 

 

壬申の乱最大の謎は、身の回りの世話をする舎人だけを従えて吉野に隠棲し、近江朝へ恭順の意を示すほか手がなかった天武が、なぜ東国に逃げただけで、正規軍を抱えた近江朝をいとも簡単に滅ぼす事が出来たのか、ということであろう。

仮に東国が近江朝の支配下に入っていたならば、天武捕縛の命令が出せたであろうに、近江朝廷は、天武追撃の兵を繰り出すかどうかも決せられず、何の策も打てずじまいであった。

 

天皇家の菩提寺、京都の泉湧寺(せんにゅうじ)では、天智から光仁・桓武の間の天武系の天皇家がすっぽりと抜け落ち、まったく祀られていない。

また、『続日本紀』によれば、仁明朝以降の山稜(天皇家の陵墓)への奉幣は、やはり天智から光仁に飛んでいて、天武系の天皇家は、意地の悪い事に無視されてしまっているのである。

平安王朝のこのような仕打ちの理由はある程度説明がつく。天武系王朝は、八世紀後半、称徳(孝謙)天皇を最後に途絶え、この後天智系の光仁が即位し、さらに子の桓武は天武系の都・平城京を捨てて平安京に遷都するから、平安王朝は、壬申の乱で敗れた天智王朝の復活であり、彼らが天武天皇に敵愾心を燃やし、祀ろうとしなかったのは当然なのである。

 

『日本書紀』は天武天皇が編纂を目論んだもので、通説は、これを“天武の為の歴史書”と考えている。しかし、この天武天皇の『日本書紀』は、平安王朝に至っても、捨てられることはなかった、それどころか、正史の地位を保ったまま、かえって重視され守られていったのである。

 

その答えは、たった一つであった。それは『日本書紀』が、天武天皇の為にではなく、天智王朝の正当性を述べるための歴史書であった、という事である。

 

天武の命で作られ始めた『日本書紀』は天武の存命中に完成したわけではなく、天武の死後三十年以上もたって完成し、しかもこの時朝廷を牛耳っていたのが、天智天皇の懐刀・中臣鎌足の子、藤原の不比等であったからである。

 

天武天皇の名・大海人の“大海”は、尾張氏そのものをさしていた疑いが強い。

『古事記』には、尾張氏の祖にオオアマヒメがいたとし、『先代旧事本紀』も尾張氏の祖を「大海姫命、(オオアマヒメノミコト)、亦の名は葛木高名姫命(カツラギタカナヒメノミコト)」としていて、『新撰姓氏録』によれば、凡海連(おおあまむらじ)は火明命(ホノアカリノミコト)=ニギハヤヒ、の末裔であったとしている。

 

大和岩雄氏の卓見:

中世に噴出した多くの文書の中で、天武が天智よりも年上になると記録されている事。

『日本書紀』が天武の年齢を抹殺してしまったのは、天武が実際には天智よりも年上で、この事実が露見してはならない理由があったのではないか。

皇極天皇(天武の母)が舒明天皇に嫁ぐ前に、蘇我系の用明天皇の孫の高向王(たかむくのおおきみ)との間に、漢皇子(あやのみこ)を生んでいたと『日本書紀』には記述がある。天武は天智の兄であるなら、その正体はこの漢皇子ではなかったか。

漢皇子の名から思い浮かぶのは、蘇我氏の軍事力となった東漢氏(やまとのあや)。その父高向王の「高向」といえば、蘇我系の高向臣が連想される。

しかも、北陸でこの高向臣と尾張氏が密接な関係を持っていたから、天武を漢皇子と同一と考えることで、取り巻きの人脈には一つの整合性が見いだせる。

 

 

天武天皇崩御の後、二人の皇子、草壁皇子(持統の子)と、大津皇子(持統の姉の子)

がいたが、文武両道で人気の高かった大津皇子は謀反の濡れ衣を着せられ持統によって殺される。その背後には藤原不比等がいた。

 

後年の持統の行動からみて、持統は天智の子の中で、もっとも性格が父親に似て攻撃的で、強く天智の遺伝子を継いだのではないかと思えてならない。藤原不比等という“選択”も、持統が、不比等やその父鎌足らとウマがあっていたからと考える事も出来る。

 

『竹取物語』に記された藤原の世:

江戸時代の国学者・加納諸平は、『公卿補任』の記述から、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する貴公子達が、文武五年(七〇一)に実在した人物であったことを突き止めた。その中には、不比等に捨てられた石上(物部)麻呂や不比等本人が車持皇子として登場していたのである。

そしてかぐや姫は、石上麻呂に同情し、車持皇子を酷評するという明確な態度をとっている。

 

車持皇子は、心たばかりある人にて

 

と、車持皇子の話は始まる。不比等は謀略の人だったと、のっけから手厳しい。

そして話は進み、車持皇子の残虐非道な仕打ちに物語中で本名を挙げられなかったのも無理はない。

 

かぐや姫はすべての求婚を拒み、天人たちの出迎えによって月の都に帰ってゆくが、その天人たちは、

 

いざ、かぐや姫、穢き所にいかでか久しくおはせむ

 

と告げている。

歴史作家の梅澤恵美子氏は、この「穢き所」こそ、藤原の天下を指しているとして、

天人の住む都には、「皇祖神ニギハヤヒとそれを祀る物部氏、“モノ”一族のリーダーであった蘇我氏、天武天皇と皇子たち、そして二大勢力の相克の果てに敗者となった大和豪族たち」が待っていたのではないか、と推理されたのである

 

聖武天皇に訪れた“藤原の子”から“天武の子”への転機:

聖武天皇の前半生は、確かに藤原の子として行動していながら、後半生のこの人物は、まるで別人ではないかと思えるほど、藤原に反発している。

彼の心に何が起こったか。

天平九年一二月二七日、藤原四兄弟が全滅してから四ヶ月後のこと、『続日本紀』には、次のような記事がある。

 

この日、聖武天皇の母で不比等の娘宮子は、皇后宮において僧正玄昉法師と出会ったという、宮子は幽憂に沈み精神を患っていたために、聖武天皇を産んだ直後から別々に暮し、一度も会った事がなかった。ところが玄昉が看病してみると、突然目が覚めたかのように正気を取り戻し、このとき“たまたま”皇居宮に来ていた聖武天皇と再会した、というのである。

 

宮子の壮絶な人生には重大な秘密が隠されていたように思えてならない。梅原猛氏は、宮子を不比等の子ではなく海女(あま)の出身だったとしているが、海女でないとしても、葛城の鴨氏と不比等との娘であり、鴨氏は出雲系だから、宮子は藤原の子として育てねばならない大切な聖武から無理やり引き離されたのかもしれなかった。それは、天武朝で藤原氏が一体何をしでかしてきたかを吹き込まれるのを恐れたからであろう。

 

宮子の“幽憂”という『続日本紀』の弁明は、にわかに信じ難く、また、玄昉の呪験力をもって宮子の病気が平癒したという話も、現実味がない。宮子ははじめから正気であったにもかかわらず、聖武という藤原の宝を純粋培養するには邪魔になったとしか思えない。

 

母の運命を知ってしまった時の聖武天皇の心痛はいかばかりだっただろう。

藤原こそ正義と教え込まれていたであろう無垢な聖武にとって、母が幽閉されていたこと、しかもその理由が、天武王朝での藤原の汚れた手を秘匿するためだったと知れば、この帝が藤原に対する憎悪に染まっていった事、“天武の子”として目覚めて行った事は、容易に想像がつくのである。

 

藤原四兄弟の死を見た人々は、これが長屋親王の祟りであると直感したであろう。長屋親王だけではない。藤原氏は蘇我入鹿を筆頭に、多くの罪なき人々の血を吸い、栄華を築いた。しかし、死者たちの恨みは、その繁栄を許そうとはしなかった。

 

藤原一族にかけられた呪いは、光明子にも多大な影響を及ぼしたに違いない。光明子は“積善の藤家(せきぜんのとうけ)”を声高に叫び、皇后宮を“滅罪法華寺”と称して、らい病患者や貧しい人々に、ことあるたびに救済の手を差し伸べていたのである。

またこの頃、突如、法隆寺に対し多くの食封が与えられたのも、意味のないことではあるまい。天武的で蘇我的なものに、光明子はひたすら懺悔したのであろう。

 

光明子は、聖武天皇遺愛の品を略奪しようと目論んだ仲麻呂の手口を逆手に取り、宝物を東大寺に封じ込めこれを守っている。これがいわゆる正倉院の宝物で、多くの聖武天皇の宝物が藤原氏の私物とならず今日に伝わったのも、光明氏の活躍のおかげなのだが、その一方で、聖武の忘れ形見、娘の孝謙(称徳天皇)の命を守るために、光明子は仲麻呂を欺き続け、藤原の女を演じ切ったのである。

 

藤原四兄弟の死に始まった藤原氏の没落、宮子の快癒によって、反藤原、親天武王朝の天皇となった聖武天皇は、藤原氏の創作した“藤原氏永続の為の天皇家”という図式を破壊しようとしたのであろう。そして、称徳天皇は道教という物部系の人物を天皇に擁立しようとしたのだった。これらの目論見は、称徳天皇崩御後に息を吹き返した藤原氏によって潰されるが、しかし、彼ら親子が残したものは、後の世に重大な影響を及ぼした。

 

 

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