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古代史ノート、伊勢神宮(関裕二著作より)

ライターさん(最終更新日時:2013/5/23)投稿日:

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伊勢神宮が整えられた七世紀から明治維新に至るまで、天皇として直に参拝した人は持統天皇と明治天皇のたった二人しかいない。

また、天皇以外の皇太子や皇族も、参拝する場合には、必ず天皇の許可を必要としたのである。

ならば、伊勢神宮は、何を目的に造営されたのだろう。

 

『日本書紀』によれば、第十代崇神天皇は、天照大神を宮中で祀っていたが、「神威」に圧倒されたので、宮の外に遠ざけた、という。

そして天照大神は当初、三輪山山麓で祀られていたものを伊勢の地に移して祀られることになったという。

天照大神は恐ろしい神なので、天皇はどんどん遠ざけて行ったのである。

歴代天皇が、天照大神を怖れ、伊勢神宮を敬遠し続けてきたのはなぜか、

であるならば、天照大神とは何者なのだろう。

なぜ、天皇家は、天照大神の霊威に圧倒されたのだろう。

 

伊勢神宮が今のような形に整えられた時期は、七世紀後半の天武・持統朝である。

不可解なのは、なぜ皇祖神・天照大神が、ヤマトから遠く離れた伊勢の地に祀られる必要があったのか、ということである。

八世紀の朝廷は、都周辺で不穏な空気が流れると、東国に抜ける三つの関を閉ざし、警戒した。謀反人が逃れて、東国の軍事力をあてにする事を恐れたのだ。

これを三関固守(さんげんこしゅ)という。

伊勢の地は、三関のひとつ、鈴鹿関の外側にあたり、都人にとって必ずしも「親近感の湧く場所」ではなかったはずなのに、である。

何故朝廷が恐れた東国の入り口に、皇室の最も大切な神を祀らねばならなかったのか。

そこには、「そうしなければならなかった」何かしらの理由が潜んでいるはずなのである。

 

持統天皇は、即位後頻繁に吉野行幸を繰り返している。持統四年(690)正月の行幸を皮切りに、在位中に31回、文武天皇が即位した後も、32回に及んでいる。この60回を超える行幸の数の多さは何だろう。風水による説明や、先天易の卦、地天泰を考慮する説も有力である。(南は「乾」「天」、持統天皇は「土徳(地)」の天皇と自信を捉えていた。

 

持統の諡号は、当初「大倭根子天之広野日女尊(おおやまとねこあまのひろのひめのみこと)」と謚されている。『続日本紀』大宝三年(703)、ところが、養老四年の『日本書紀』の中で、その諡号は「高天原広野姫天皇」に入れ替わってしまっている。 

歴代天皇の中で、神話の世界の天上界=高天原の名を諡号にあてがわれた人物は、他に存在しない。

『日本書紀』編者が持統天皇を高天原の女神・天照大神になぞらえたからであろう。

持統は吉野に通い詰める事により天と交合し、太陽神・天照大神に化けようとしたのである。

 

なぜ、持統は自らを神に重ねる必要があったのだろう、そもそも天照大神とは何者なのだろう。

持統は、即位以前は、【現人神】天武天皇の妻として「日女(ひるめ)」であった。

 

持統女帝は、6923月に、伊勢に行幸している。

伊勢に行幸したのは持統女帝だけであることから見ても、持統朝に新しいヒメ神が祭られたと考えられる。

本来は男性であった太陽神を、持統は女神にすり替え、自らを太陽神になぞらえた。

 

持統は「ヤマトタケルの陵墓の鳴動」(『続日本紀』70288日の記事)“事件”の後東国に赴き、行幸先の田租を免除したと記される。

その際に、三河、尾張、美濃、伊勢、伊賀を経由して、すなわちヤマトタケルの伝承地をほぼなぞって戻っている。

しかもこの行幸は持統天皇の最晩年に行われていたことである。

老骨に鞭うってでも行かねばならない差し迫った理由とは何だったのだろう。

 

それはヤマトタケルの祟りへの恐怖としか考えられないのである。

 

※ヤマトタケルは第十二代景行天皇の子だが、通説では実在が疑われている。

ところが、近代に至るまで、ヤマトタケルの死を悼む歌が歴代天皇の葬送の儀で詠われ続けている事実がある。天皇家は、実在したであろうヤマトタケルのモデルに、何かしらの後ろめたい気持ちを持っていたに違いないのである。※

 

そして、天皇家は伊勢には近寄らないのである。

 

崇神天皇は宮中で祀る神、天照大神と倭大国魂神の威に圧倒され、二柱の神を宮から遠ざけた。その後疫病が蔓延し、卜いをしてみると、出雲の神・大物主神が、子の大田田根子をもって祀らせれば、世は平静を取り戻すだろうと教え、崇神はそれを実行した。

三輪山の麓にて祀る事になる。

※疫病が蔓延し、手に負えなくなった崇神は「謝罪したい」と漏らしている。※

 

※『日本書紀』によれば、大物主神は大己貴神と同一であり、大己貴神の“和魂”(にぎみたま)を大物主としている。『古事記』では、大物主神は「祟る神」であると、明確に記録している。荒魂の属性を持った大物主神を、なぜ、大己貴神の和魂だったと偽証する必要があったのか。両神は別の神であったのを、『日本書紀は』同一に見せかけようとする意図が見える。※

 

伊勢神宮に残される不可解な二重構造

 

天照大神に対する崇拝が宮廷内にあったとすれば、天照大神祭祀の痕跡が宮廷に残されていたはずだ、また、天皇の即位儀礼や大嘗祭も伊勢神宮で行うべきであるのにそのような例はないとする。

しかも、伊勢神宮の正殿と宮廷の儀礼の場である大嘗宮の間に、構造的な一致が見られないのはなぜか。

 

伊勢神宮には、神鏡・八咫の鏡が祀られ、熱田神宮には、草薙の剣が祀られ、これが天皇家の三種の神器と信じられているが、『古語拾遺』によれば崇神天皇が、忌部氏に命じて、鏡と剣を造らせ、これらを皇位継承のレガリア(王権の象徴となるもの)にしたという。

つまり、天皇家の正当性を支える道具としての三種の神器は、宮中にひとそろい、さらに「伊勢神宮と熱田神宮」の神宝と、二種類あった事になる。

 

伊勢神宮を祀る神官にも、二つの流れがある。天武天皇の時代、初めて禰宜職が置かれ、皇大神宮(内宮)の禰宜は渡会氏が任ぜられた。度会氏は忌部氏(斎部氏)の系統である。ところが、天武天皇崩御の後、持統天皇は、度会氏を豊受大神宮(外宮)の禰宜に、皇大神宮の禰宜には荒木田氏が任ぜられという。荒木田氏は謎の一族で、「荒木田」は「墾田(あらきだ)」で、新たに開拓した農地の意だから、新興勢力であろうとする説もある。

いずれにせよ、伊勢神宮の神官には相容れない二つの流れがある。

 

天武・持統の関係

 

『日本書紀』に登場する「天照大神」は、持統天皇の姿にそっくりで、それは、持統天皇の諡号「高天原広野姫天皇」からも明らかである。もし『日本書紀』のいうように、天武と持統が仲睦まじく、通説の言うように持統は天武の遺志を継承したというのなら、なぜ持統は夫の天武を太陽神になぞらえず、本来男性であった太陽神の性を変えてまで、自らを太陽神になぞらえる必要があったのだろう。

 

天武天皇と天智天皇は、『日本書紀』に従えば、実の弟と兄という事になるが、そりが合わず、反目していた。

持統は天武天皇の皇后だったとはいえ、天智の娘でもあった。

ここで、天武系、天武的政治方針を、天智系、天智的へと路線変更を企てた人物がいる、藤原不比等である。

 

正史『日本書紀』では、持統即位ならびに持統の孫珂瑠皇子の立太子を当然のごとくに記述するが、『扶桑略記』や、『懐風藻』を読む限り、この二つの出来事は“事件”であった。

また、『万葉集』巻二の一一一から一一三に続く弓削皇子と額田王の間に交わされた相聞歌に、持統と不比等に追い詰められた天武の遺児、弓削皇子の立場を読み取る事が出来る。(梅澤恵美子『額田王の謎』PHP文庫)

 

問題は、天武が編纂を命じたとされる『日本書紀』の制作を、「持統・不比等政権」が担ったことである。

『日本書紀』は決して天武の為に記されたのではない。【天武天皇の崩御の後、強引な手口で権力を握った持統と不比等の「悪事を糊塗するための方便の書」が『日本書紀』である。】

こう考えると、なぜ持統が天照大神に化けなければならなかったのか、その理由がはっきりしてくる。

持統は、「持統の血を引いたものだけが王になれる」体制を作ろうと目論み、そのための大義名分を必要とした。そこで編み出されたのが、「女神、天照大神」という偶像だった。

 

持統は「天武の敵」「蘇我の敵」である不比等と手を組み、天武の王家を乗っ取った。その手口は悪質であり、謀略の限りをつくした。だからこそ、平安時代に至っても、多くの人々が「藤原」を憎んだのである。

 

問題は、持統の「おびえ」である。

ヤマトタケルの亡霊に対する極度の恐れ、天武や大津皇子に対する後ろめたさ。

伊勢神宮は持統が潰しにかかった王家の墓標の意味合いもあったのではないか。だからこそ不思議な二重構造が伊勢神宮に残されたのではあるまいか。

 

八世紀の『日本書紀』の編者は、三世紀のヤマト建国の様相をある程度知っていて、「分かっていたから真相を闇に葬った」可能性が出てくる。

 

まず、出雲没落の原因を解き明かしていこう。

ヤマト黎明期における争乱、出雲対ヤマト、そのカギを握るのが第十五代応神天皇とその母神功皇后である。

『日本書紀』は、一つの歴史を三つ(神武・崇神・応神)に分解している。

三人の天皇にだけ、そうして神功皇后も含めた四人だけに「神」の字が与えられた理由は、ヤマト建国をめぐる怨讐に関わりを持った人々であったと思われる。

その証拠に、神功皇后は邪馬台国の卑弥呼の宗女・台与(壱与)と多くの接点を持ち、応神天皇の行動は、神武天皇にそっくりなのである。

 

『日本書紀』では、応神天皇は一度たりとも南部九州に赴いていない、ところが、中世文書、『宇佐八幡宮託宣集』『水鏡』などでは、応神と南九州(大隅)のつながりを強調している。

「中世」は、『日本書紀』を記した権力者(要するに藤原氏)が没落した時代なのであって、『日本書紀』によって隠匿されてしまった古代の歴史の真相が、堰を切って世に噴出した時代でもあった。

だが、応神とそっくりな神武天皇は、それ以前に成立した『日本書紀』の中で、「南部九州からやってきた」と記されている。

したがって、応神天皇と南部九州の繋がりは、想像以上に古い段階で語られていたものと思われる。

 

「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼は三世紀半ば、狗奴国との交戦中に、死んでいる。

そしてその死後、男王がいったん立つも、国中が納得せず、騒乱が起き、結局卑弥呼の宗女・台与が王位につき騒乱は収まったとある。

この「魏志倭人伝」の卑弥呼をめぐる記事と『日本書紀』の神功皇后の記事を重ね合わせれば、ヤマト(大和)の台与(神宮皇后)による山門県(邪馬台国)の卑弥呼殺しを想定してみたくなるのである。

 

台与が卑弥呼の宗女と報告されているのは、山門を討ち取ったヤマトはこの事実を魏に正確に報告する事は出来なかったからだろう。親魏倭王を殺してしまった事が魏に露顕すれば、ヤマトは義を敵に回す事になる。だから、台与を卑弥呼の宗女と報告したという事になる。

しかし「新魏倭王」の称号も、魏の滅亡とともに意味をなくし、後ろ盾と権威を失った台与(神宮皇后)は、筑後川を下り、有明海に逃れ、さらに南下したのではあるまいか。

これが、神話で言う所の出雲の国譲りであり、また、天孫降臨も、まったく同じ事件だったのではあるまいか。

※神宮皇后は平安時代に至っても、「祟る女神」と恐れられていたこと、さらに、宇佐神宮では、神宮皇后と身内が、祟る神として祭られている※

 

出雲の国譲りは神功皇后と武内宿禰の敗北であり、天孫降臨は、彼らの南部九州への逃避行であったと見なせば、多くの謎が解けてくるのである。

 

問題は、第十代崇神天皇に大物主神から下された神託の一言である。この中で、大物主神は「三韓も自ずから靡いてくる」と告げている。

崇神の困惑は「出雲の祟り」だけではなかった。つまり、崇神が謝罪しなければならなかったのは、ヤマトの吉備の出雲追い落としが、ただ単に国内問題だけでは終わらなかった、という事である。

 

出雲とは全くかけ離れた東国で、なぜか出雲神がもてはやされている、という事実がある。

たとえば、武蔵の国の一宮は氷川神社で、祭神は素戔鳴尊である。その理由の一つは国造が出雲系だったからであるが、なぜ、武蔵の国のほか、上総、安房、下総、常陸など南関東の九つの国に出雲系が広がっているのか。

 

猿田彦大神:神話のチョイ役にすぎない国神の猿田彦大神は、なぜ「大神」なのだろう。

「大神」と名のつく神は『日本書紀』の中で、六柱、『古事記』の中で三柱だけ。しかも、国神の中では他に例を見ない。

 

天細女命は太陽神を岩戸の中からおびき出すために踊るが、一方猿田彦大神の前でもヌードショーを演じている。これは猿田彦大神が「太陽神」だったからだろう。

 

そして『古事記』では、猿田彦大神は伊勢の海に沈んだと記されている。

伊勢神宮の周辺で、盛んに猿田彦大神が祀られている事にも、大きな意味がある。

伊勢氏の猿田彦神社では、祝詞の中で、猿田彦大神を「サダヒコノオオカミ」と呼ぶという。

伊勢の猿田彦大神と出雲の佐太大神は、どうやら無関係ではなさそうだ。

 

宍道湖の北岸、島根半島の中ほどの島根県松江市古曽志町に、猿田彦命と天細女命を祀る許曾志(こそし)神社があり、地元では、ここが猿田彦大神の生誕地と伝えられている。

「許曾(こそ)」「語曾(こそ)」で思い出すのが、比売許曾(ひめこそ)である。

比売許曾は、朝鮮半島から日本にやってきた女神だ。伽耶王ツヌガアラシトの元から逃げて来たという。『日本書紀』ではこの後に、「新羅の王子天日槍(あめのひぼこ)が来日した」という話が続く。

『古事記』にも天日槍の来日記事が載るが、そこには、先の「比売許曾を追って来日したツヌガアラシト」の話とそっくりそのままの説話が、語られる。

 

天日槍に向かって乙女は、

「そもそも私は、あなたの妻となるべき女ではありません。私の親の国へ行きます」と告げ、

小舟に乗って日本に逃げてしまった。そして難波に行きつき、比売許曾神社に祀られたのだという。

天日槍は乙女を追って難波にやってきたが、難波の津の神が邪魔立てしたので、やむなく但馬に行ったという。ツヌガアラシトと天日槍は同一人物とされる。

 

天日槍に注目すると、興味深い事実が次々と現われてくる。

まず第一に、その来日が、崇神から垂仁の時代であったと『日本書紀』はいい、これが、ヤマト黎明期の混乱の時代であったこと、また、天日槍の行動経路と、神宮皇后の足跡がぴたりと重なっている事である。

足跡が重なっているだけではなく、『古事記』によれば、天日槍と神宮皇后は血のつながりがあったと記されているが、神宮皇后も「許曾」とは接点を持っているから問題である。

 

神宮皇后と邪馬台国のトヨは同一人物ではないかと指摘しておいたが、天日槍の追ってきた比売許曾(ひめこそ)の音は「ひみこ」に通じる。また、「ひみこ」は名ではなく、「日の巫女(太陽神を祀る巫女)とすれば、トヨも「日の巫女」であり、比売許曾とトヨが似通っている事が分かる。

 

猿田彦大神はその出現時、光輝き、天上と地上を照らし、口と尻がてかっていたという。そして、目はらんらんと輝いていたのであり、これは太陽神のイメージである。また、各地の祭礼で、猿田彦大神が矛をささげて行列を誘導する事が多いが、なぜ矛なのかといえば、矛が「陽」の象徴であり、猿田彦大神の鼻と重なってくるからだろう。

 

猿田彦大神には海の神の要素があり、伊勢後で海に沈み、三つの名を与えられている。これは、海の神の特性でもある。

たとえば、日本を代表する海の神に住吉大神、綿津見神、宗像神それぞれに三つずつ名を与えられている。これはなぜかというと、最も有力と思われる説は、航海の目印になるオリオン座の三星に因むのではないか、という説である。

 

天日槍が猿田彦大神に似ていたのは、天孫降臨を導いた猿田彦大神が、『日本書紀』別伝では、「それは塩土老翁だった」と記されるように、その正体が住吉大神であり、武内宿禰であること、しかも彼等を神格化した名が天日槍であったと考える事で、多くの謎が解けてくるのである。

 

塩土老翁や武内宿禰は意外な人物ともつながってくる。それは浦島太郎である。

浦島太郎は実在の人だったと、『日本書紀』は記録する。『万葉集』も、『風土記』もみな、浦島太郎を詳しく語っている。

『日本書紀』の場合、特別に別冊を用意したというが現存していない。

なぜ、誰もが浦島太郎に黙っていられなかったのだろう。

そして、海幸彦山幸彦神話は、話の内容が浦島太郎にそっくりである。

浦島太郎は「老人」となってしまい、山幸彦を救ったのは塩土老翁であった。

 

太陽神の性格を持った天日槍が、猿田彦大神と呼ばれ、天孫降臨の後に伊勢に向かったのは、北部九州でヤマトに敗れた出雲が、南部九州に逃避行し、さらに猿田彦大神はある理由により伊勢に向かったという事ではあるまいか。

ヤマトの吉備は、出雲の祟りにおびえた。そこで祟りをもたらす神を祀ったが、恐怖のあまり宮中から引き離し、伊勢に祀るとともに、日向に逼塞し零落していた猿田彦大神(武内宿禰)と神宮皇后の末裔をヤマトに呼び寄せ、王に立てたという筋書きが描ける。

 

つまり、伊勢の本当の太陽神とは、恨みを抱き祟る猿田彦大神(天日槍、武内宿禰)だったのではないかと思えてくるのである。

 

天武が祀ろうとした伊勢の神と、持統の祀る伊勢の神は、似て非なるものであった。

不思議な伊勢神宮の二重構造は、持統が伊勢の神を隠匿したことに起因する。隠しただけでなく、女神の太陽神を創祀し、伊勢の神は伊勢神宮の整備とともに、極秘裏にすり替えられてしまったのである。

ただしこれは、建前上の事であって、「祟る伊勢の神」は、正殿の床下ににょきっと頭をもたげる「心の御柱」という形をとって、生きながらえたのだろう。だからこそ、心の御柱祭祀は何よりも優先され、「祟る神に対峙できる童女=大物忌」が祀り続けてきたわけである。

 

繰り返すが、歴代天皇の大御葬では、必ずヤマトタケルの死を悼む歌が詠われ続けられてきた。

 

ヤマトタケルと神武天皇をつなぐ「武(たける)の王家」の話。

ヤマトタケル(日本武尊)と神武天皇のどちらにも、名に「武」の文字がつくのは、偶然ではないのである。

 

ここでひとまず、ヤマトタケルの正体を種あかししておこう。

彼は武内宿禰と同一人物であったと思われる。

 

ヤマトタケルは「日本武尊」とも「倭建命」とも表記されるが、「タケル」を「武」や「建」と表現するのは、武内宿禰(建内宿禰)と共通である。『日本書紀』によれば、両者は同時代人で、景行二十五年七月に、武内宿禰は北陸と東方の諸国に使わされ、地形や百姓(おおみたから)の消息を視察している。この直後、ヤマトタケルの熊襲征討と東国征討の記事が続く。

景行天皇の子・成務天皇と武内宿禰は同じ日に生まれたといい、成務は武内宿禰を寵愛したという。一般には武内宿禰も成務もその実在性が危ぶまれるが、それならなぜ、『日本書紀』は両者が同じ誕生日という説話を必要としたのか。

 

それは、実在し、モデルとなった人物を武内宿禰と成務天皇、そしてヤマトタケルにわけてしまったからだろう。

 

この手口は、聖徳太子と蘇我の入鹿にも当てはまる。

蘇我氏を滅ぼした藤原氏は『日本書紀』の中で、蘇我系の皇族・聖徳太子という偶像を造り上げ、その上で、蘇我氏の多くの功績を聖徳太子によるものとすり替えてしまったのである。

 

※武内宿禰は「武内+宿禰」ではなく、「武+内宿禰」である。※

※出雲の国譲りに最後まで抵抗し、東国の諏訪に逃れた建御名方神は、「タケル(建・武)の名の方」であり、ヤマトタケルの正体とその末路を暗示している「隠語」と思われる※

 

ヤマトタケルは武内宿禰であるが、武内宿禰一人ではなく、ヤマト建国とその後の主導権争い、そして「出雲」の悲劇すべてを一人で演じ切り、重い歴史を背負いこんだ男だったといえるのかもしれない。

 

歴代天皇の中で漢風諡号に「武」の文字を与えられた人物、神武・武烈・天武・文武・聖武・桓武がいるが、共通しているのは東国の力を借りた(強い縁のあった)天皇達である。ただし、桓武の場合は「桓」の文字には「お棺を墓穴に下すための四本の柱」の意味もあり、「武の王家を葬り去った王」となり、天武天皇の王族が潰された後登場した者で、天武や蘇我氏の宿敵・天智系統で、藤原氏が強力に後押しした天皇であることを思えば納得できる。

 

北部九州で「出雲」の王家は滅亡した。トヨ(神宮皇后)らは南部九州に逃れた(天孫降臨)

政権を奪ったヤマトは彼らの生き残り、東国に逃れた(追いやった)者達の処遇に窮したのではなかろうか。

 

朝廷の祭祀において、天照大神は大嘗祭の主役ではない。そうではない別の神が丁重に祀られているのである。

この神こそ天照大神出現以前の王家の祖神である。

持統天皇が私利私欲の為に本当の神を押しやってしまった事により、持統天皇自身が、祟る神を生みだし、祟る神に恐怖する番になった。

だからこそ、ヤマトタケルの陵墓が鳴動したという報に接し、老骨に鞭うって、東国行幸を敢行したという事になる。

 

伊勢神宮に祀られる天皇の神が、天皇家自身を呪うようになってしまったのは、持統と藤原不比等の構築した「欺瞞の神道」故である。

 

王家にとって伊勢神宮は祟る恐ろしい神社となり果てた。

 

 

 

 

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