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“叛逆の物語”へ向けて『魔法少女まどか☆マギカ』のコラム的考察Ⅲ

ライターさん(最終更新日時:2013/10/22)投稿日:

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4.3 洪水神話と村上春樹氏の短編より

 『まどマギ』にはワルプルギスの夜という災厄をもたらす魔女が出てきます。ワルプルギスの夜は劇中で語られている通り、その他の魔女とは違い魔力を持たない人間には災害として認知されるほど広大な範囲に甚大な被害をもたらすとされています。

 ワルプルギスの夜を、この項目では、人類の文明の興隆とともに伝えられてきた洪水神話や村上春樹氏の短編集『神の子どもたちはみな踊る』[新潮社、2000]より『かえるくん、東京を救う』の短編小説を通して考察します。

 ワルプルギスの夜の特徴ですが、ここでは2つに絞ります。

 一点目は、大災害であるという点です。これは街に建っていたはずのビルが宙に浮いていることからもよく分かります。

 二点目は、その大災害を起こすワルプルギスの夜の正体が魔女であるということです。正確にいえば、魔女化システム上の存在で元々人間であった魔法少女たちの魂・感情と何らかの関係があるということです。

まずは洪水神話との比較から行います。

洪水神話とは、世界各地の神話における、洪水による〈世界〉の滅亡を描いた物語の共通性についての概念です。様々な神話で、大洪水による人々の死と文明の破壊が語られています。

この洪水神話は、今から4000年ほど前のシュメール神話で登場するのですが、実際に洪水が発生していたことが発掘によって確かめられています。また、洪水神話という物語の共通性がシュメール神話を基として広がっていったのか、各地で独自に成立した物語なのかは文献学的には証明されておらず、いまだ議論の対象となっています。ここではその起源については掘り下げません。また、洪水の起こりにくい地域の神話では、こういった共通性が存在していないようです。

起源や成立とは別に、そういった洪水神話という共通性が世界中に存在している背景としては主に次の点が有力だと考えられています。

それは、人類の古代の文明が川や海のそばで興隆してきた点です。教科書に載っているようなメソポタミア文明やエジプト文明も含まれます。こういった川や海のそばといった諸地域で文明が興隆していたため、人間が抗うことのできない災害を、現実に目の当たりにする水害として認識していたことが多かったのであろうということです。

洪水神話の部分は各神話で扱いが違うのですが、いずれも、人間の抗うことのできない神や自然といった人間より強いものへの恐怖と畏怖の対象として位置づけられています。

これらは水害に限らず、地震・津波・噴火や冷害・熱波といったものも含め、科学・防災の発達した現代でも人間が苦しめられている現象であり、人間と〈世界〉を否応なしに対比するものです。

『まどマギ』におけるワルプルギスの夜も、ほむらが絶対に勝てない魔女として存在するだけではなく、根源的に人間が勝てない存在として災害といったかたちで描かれていると思います。勝てないというのは防災・減災によって被害を軽減できるかどうかといった基準ではなく、その存在そのものを人間の力によって消滅させられるかという点においてです。例えば病気という存在にも人間はおそらく勝つことは不可能だと思います。

しかし、『まどマギ』では、まどかはワルプルギスの夜を撃退します。これは一体何を意味しているのでしょうか。

ここで、村上春樹氏の短篇『かえるくん、東京を救う』の登場です。

 この『かえるくん、東京を救う』は、阪神大震災という時代を体験した村上春樹氏が書き上げたものです。(地下鉄サリン事件も同じ時代です。)

 内容は、直接読んで頂きたいので要約しますが、普通の男の前にかえるくんが現れて、かえるくんが地震を引き起こすみみずくんと戦う話です。かえるくんは普通の男に励ましてくれるよう頼み、離れた地の地震に触発されたみみずくんは吸収蓄積した憎しみを糧に東京で大きな地震を引き起こそうとします。

 こういった『かえるくん、東京を救う』をはじめとした短篇集『神の子どもたちはみな踊る』は、人間の内面と地震の発生を結びつけるものだとして批判もされました。自然現象として引き起こされる災害を人間の憎しみのような負の感情によって引き起こされているような描写はおかしいと。

 これについては『まどマギ』のワルプルギスの夜にも当てはまると思います。

 では、本当に、そういったオカルトじみた、古くは祈祷によって災害の発生を防ごうとしてきたような、人間の内面が災害の起因に関与できるということを訴えたいのでしょうか。それは違うと考えます。

 災害のような人間の勝てない存在を人間の内面と関連させることで、現実の現象としては勝って消滅させられないかもしれないが、それに負けない内面を持つことの重要性を表現しているのでしょう。災害と人間の内面という、虚構の関係を通すことで、そういったメッセージを感覚的に受け取ることが可能となっているように思えます。

 『まどマギ』でまどかがワルプルギスの夜を撃退するのも、決して災害を自力によって消滅させたり、人間の内面が災害の起因に関わっているという非科学的な説明をしようとしているわけではなく、村上春樹氏の『かえるくん、東京を救う』におけるような、災害に負けない内面を持っていこうというメッセージでしょう。

 そして、このメッセージは、現実の防災や減災に頼らないといった盲目的な姿勢を決して擁護するものではなく、むしろそういった現実の行動を後押しするものだと思います。

『かえるくん、東京を救う』における、かえるくんとみみずくんの勝敗については、是非、ご一読を。

4.4 永劫回帰と超人

 4.4については、色々な方が様々な見方をされているので短く。

 永劫回帰と超人というのはニーチェの思想です。

 永劫回帰とは、この世は繰り返されていて、そこには価値や意味など無いとするニヒリズムの立場からどのように〈世界〉を捉えているかを説明するものです。尊いはずの一人ひとりの人間が生まれては死んでいくことが繰り返されてきた人類の歴史や、宇宙的には何事もなかったかのように〈世界〉が運行されてきたことを見れば、たしかにそのようにも見えます。(科学的には、『まどマギ』の劇中で宇宙すら終わる可能性があるように、繰り返されているわけではないので否定されていますが、宇宙自体が生まれては死んで繰り返される可能性も物理学では議論されています。)

 そういった永劫回帰の〈世界〉は虚無であるという視点から思想を提示するのがニヒリズムで、ニヒリズムには受動的ニヒリズムと、能動的ニヒリズムの2種類があります。

 受動的ニヒリズムは、この世は無意味であると断じたままただ惰性によって生きる思想です。

能動的ニヒリズムは、その無意味であることを理解した上で、それでも積極的に生きてゆく姿勢を強調したもので、そういった姿勢の人間を超人としています。能動的ニヒリズムそのものについては、純粋な虚無主義からのある意味での脱却を促す思想的に優れたもののように思えますが、この世を無価値・無意味と断じているゆえに能動的ニヒリズムに生きる個人(超人)の価値観が全ての基準になってしまうため、現在では危険な、要注意な思想とされています。ネットや様々な媒体で肯定的に使っている方も多いので、虚無主義からの脱却といった意味合いに限っているということに注意するべきです。ただ、その場合でも能動的ニヒリズムの課題とどう向き合うのか、なかなか難しいところです。

 第10話において明らかになるほむらが繰り返してきた時間遡行も永劫回帰と同じようなもので、それゆえに能動的ニヒリズムの考えをほむらが持つに至ったと考えられます。

『まどマギ』でほむらは「まどかを守る」といった価値観から他者に対しては異常とも思える非寛容さを示しています。これは、ほむらが実は内面でマミやさやかが死んで苦しんでいたとしても関係なく、根本にあるこの世は無意味・無価値であるという思想に原因があります。そのため、「まどかを守る」という価値観のもとであればさやかを殺すことも厭わない第8話のようになったのでしょう。この点については、第10話の眼鏡のほむらにそういった素養があったことと、こういった能動的ニヒリズムによって超人になることでしか生きていけないほむらの強制的な永劫回帰の環境があったためで、まさに第10話に集約されています。

 次に、ほむらだけでなく、まどかの視点から見てみたいと思います。

 『まどマギ』というのはほむらの永劫回帰の印象が強くなりがちですが、物語全体が永劫回帰の一つであり、また、魔法少女の歴史そのものが永劫回帰といえます。

 まどかはこの永劫回帰をどう受け止めたのかというと、完全な拒否と言っていいでしょう。能動的ニヒリズムによって「希望」の価値観を軸にした超人となったようにも見えますが、厳密にはそうではありません。

この項目以前にも述べたように、まどかは、死や絶望といったものを拒絶するのではなく、そういったものを受け入れてでも〈この世は生きるに値する〉と「希望」の概念になりました。これは第10話で雨のなか横たわるまどかとほむらの対照的なシーンでも如実に描かれています。ただ、このシーンでのほむらのソウルジェムを浄化するまどかの優しさと、〈この世は生きるに値する〉から魔女にならないために殺してくれという依頼、そのために魔法少女になるのを阻止してほしいという願いが、後のほむらの能動的ニヒリズムのような生き方の原因ともなっていると考えるとなんとも言えません。

ここまでで、この世は無意味だが強く生きることと、〈この世は生きるに値する〉ということは似ているようで決定的に違い、相容れないものであるということが分かりました。

ほむらの能動的ニヒリズムは自己完結ですが、唯一、まどかの立場から、ほむらのような永劫回帰と超人の物語も、能動的ニヒリズムを踏み台として〈この世は生きるに値する〉という生への全面的な肯定を揺るぎないものとするために意味を持ちます。それは最終話「わたしの、最高の友達」というサブタイトルに結実しているといっていいでしょう。魔法少女の永劫回帰の歴史もそのような役割を果たしました。

とりあえず、ここまでは、『まどマギ』というのは、永劫回帰と超人というものを否定する物語であると言えます。

とりあえずとしたのは、最終話Cパート(ほむらの黒い翼)Bパートにおけるほむらの「悲しみと憎しみばかりを繰り返す、救いようのない世界だけれど」という、まどかの〈この世は生きるに値する〉という心とは対極にあるセリフが深刻で、そうとも言い切れない可能性があるからです。しかし、『まどマギ』という物語と敷衍するのではなく、少なくともまどかを主人公とする『まどマギ』とするなら、概ね、上記のような物語であると考えられます。

ほむらの内面については後にで言及します。

4.5 視聴者と作品の入れ子構造

 『まどマギ』には物語の入れ子構造(ミザナビーム)・劇中劇の構造が存在しているので、その点について考察していきます。

 入れ子構造というのは、簡単にいえば「鏡に写った自分の目の中に自分が居てさらにその自分の目の中には…」というマトリョーシカのような構造をいいます。

その構造を物語に組み込むと劇中劇という概念になります。例えば、サスペンスドラマの登場人物である刑事が「誰が犯人かなぁ」なんて劇中のテレビでやっているサスペンスドラマを推理しているようなものです。サスペンスドラマの中にサスペンスドラマがでてくると。古くは1600年以上前のインドの叙事詩からシェイクスピア、『アラビアンナイト』などに同様の構造が確認できます。

次にメタ発言いう言葉を通して、メタ的表現を確認しておきます。

 メタ発言とは、物語や作品の中の虚構の人物が読み手や視聴者を意識して発言したりすることをメタ発言といいます。例えば、『まどマギ』OP5人が集まる電波塔の上で(実際には言わないですが)「電波にのってみんなのおうちへいくよー☆」なんて言ったりしたらメタ発言となります。

 そういったメタ発言はないものの、メタ的な表現が『まどマギ』にはあるので、それらを通して、入れ子構造を考察してみます。以下は考察に関わる部分を列挙したもので他にもあるかもしれません。

【メタ的表現】

    魔女の名前が魔女文字で示されている

    11話で、ほむらがワルプルギスの夜に戦いを挑む際に幕開けとカウントが入る

    最終話で「Don’t forget, …」のメッセージが表示される

    最終話で人形のようなまどか達の後ろ姿とともに映写機の音が止まる

(追加⑤、まどかの母詢子の「アニメかなんかのキャラとか?」とのメタ的な発言

→自分たちがアニメのキャラであるとは意識・自覚していない)

(追加⑥、第8話噴水前のベンチでのTVの砂嵐のようなカット?)

 

これらは全て、メタ的な表現となっている(劇中の世界に存在していない)ので、メタ発言と違い『まどマギ』の劇中の人物たちが意識したり触ったり見たりすることはできません。登場人物のいる虚構の世界と視聴者の間に介在しているものです。

①については、具体的には新房監督がウルトラマン世代であることと関係があると思うのでここでは省きます。ひとまず、メタ的表現が初期の段階から組み込まれていることを認識しておけばいいと思います。

 重要なのは②と③・④で、特に②によって③・④が意味を持つといっても過言ではありません。

 ②の幕開けとカウントが入ったのは第11話ですが、これは第10話と関連しています。

 第10話でほむらが時間遡行者であり、多くの物語を見てきた特別な人物であることが明かされますが、これは、『まどマギ』という全体の物語の中に組み込まれたほむらの様々な物語であり、その構造は劇中劇と言っていいでしょう。

【物語中の入れ子構造=劇中劇】

 ・第10話におけるほむらが時間遡行で繰り返した様々な物語

 

 しかし、劇中劇というのは作品内で完結していて、メタ的表現とはまた別のものです。先ほどのサスペンスドラマの刑事が「これをみているあなた!犯人を教えて下さい!」と言ったとしたら劇中劇の構造ではなくメタ発言になります。

 第10話によって劇中劇の構造を有した『まどマギ』ですが、そこに絶妙なタイミングでメタ的表現が組み込まれます。第11話のワルプルギスの夜戦の幕開けとカウントです。

 これはどのような効果をもたらすかというと、劇中(『まどマギ』全体の物語)で劇(10話の様々な物語)をみてきたほむらの戦い(『まどマギ』全体の物語)もまた、視聴者にみられている劇だという構造をつくります。

とても当たり前のように思えるかもしれませんが、フィクションをフィクションとして客観的にみている視聴者と作品の間には絶対的な断絶があるにも関わらず、それを逆手に取って劇中劇を展開し、その上でメタ的表現によって入れ子構造そのものの中に視聴者を組み込むという非常に巧妙な手段が取られているのです。

【『まどマギ』の入れ子構造】

様々な物語の世界(第10

     ↑(劇中劇に拠る関係)

をみてきたほむらの世界(『まどマギ』

       ↑(メタ的表現に拠る関係)

をみてる視聴者


 この入れ子構造は①を経て第10話から②のメタ的表現をもって成立しているのですが、その後に続く「Don’t forget, …」というまぎれもないメッセージが存在するシーンと、終劇で映写機の音が止まるという、③・④の特に強い印象を与える二つのメタ的表現によって完成されています。

 また、このように完成された構造は、単に視聴者で終わるわけではなく、その入れ子構造に従うならば、『まどマギ』を観ている視聴者自身の人生もまた〈みられている物語〉だという視聴者の客体から主体への変換が行われます。この点は特に③の「Don’t forget, …」というメッセージと両輪になっています。

この総合的な入れ子構造は、自我の肥大化から来る世界の救済という物語の持つ課題を、『まどマギ』が克服しようとしているがゆえの所作といえます。

 この考察で『まどマギ』には視聴者と作品を結びつける入れ子構造がその物語に組み込まれていることが分かりました。

(個人的には、①~④いずれも絶妙なバランス感覚で配置されている上、どれかを先に立てて入れ子構造を作るのも難しく、芸術品と言っても良い構造を有していると思うのですが、まさにこの点が『まどマギ』の終盤における怒涛のような展開、人によってはやや難解と感じるSF的解釈の優先度の下降、ひいては『まどマギ』という物語とその具体的なメッセージに多くの人が魅せられるといった要因となっているのでしょう。「まど神星雲」の方もこの構造の影響が大きいでしょう。また、TV版での描写はないですが、設定で、マミが「ティロ・フィナーレ」と叫ぶ理由が、マミが昔テレビで見たアニメの魔法少女をモデルにしている点から、視聴者とは反対側方向でも入れ子構造が続いていると考えられます。)

 

登場人物の分析

5.1 志筑仁美の絶望

 続いて、登場人物の分析にうつりたいと思います。

 分析と言っても散々言われてきたことを整理している面もあるので、ここまでの各項目の考察と同じく、軽い気持ちで読んで頂ければと思います。順番はなんとなくです。

 それでは志筑仁美から分析です。

仁美については、具体的な描写がないものの魔女の口づけにやられた第4話に注目したいと思います。

 魔女の口づけによって絶望的な考えに陥ってしまうのか、絶望的な考えが魔女の口づけを引き寄せるのか、どちらか片方のパターンなのか両方なのか具体的な描写はありません。また、魔女の口づけが起因になっている場合、魔女の口づけをされた人間の生活に絶望的に捉えられる出来事が無くても否応なく操られてしまうのかどうかも分かりません。

ただ、第3話でマミが「かたちのない悪意となって、人間を内側から蝕んでいくの」と述べているように、第10話でほむらが「死んだほうがいいかな」と魔女空間に引き込まれる前に考えている点や、同じく第4話での町工場の男が「そうだよ。俺はダメなんだ。こんな小さな工場ひとつ満足に切り盛りできなかった。今みたいな時代にさ、俺の居場所なんてあるわけねぇんだよな」と語っている点から、仁美も二人と同様に深い絶望に囚われていたと考えられます。あくまで物語から考えられるものですが。

ここからは推察になりますが、仁美の行動から絶望へと至る経緯を考えてみようと思います。

 まず、まどかとさやかから疎外感を感じているという点です。

「まさかふたりとも、既に目と目で分かり合う間柄ですの?」や「うらやましいですわ。もうお二人の間に割り込む余地なんて、無いんですのねー」といった2度にわたるシーンで、たとえそれが勘違いだったとしても、仁美が疎外感を感じているのが分かります。

あくまで推察ですが、第7話でさやかに自分の気持ちを告げるに至るまで、さやかの上条への眼差しに特に動揺せず、むしろさやかの本音を察するかのような描写は、上記のシーンで仁美が同性愛のような関係をさやかやまどかに感じたのでは無く、実際は、その友情が自分とのものよりも深いのだということを深刻に受け止め、それを隠すための発言だったとも考えられます。(ミスリードについては物語の考察に関係ないと考えます。)

 次に、上条が医者から治療が不可能であると宣告されたタイミングから、仁美がそれを知ったから絶望したのではないかという点です。これに関しては作中の描写が一切無いので憶測・妄想と大差ありません。

ですが、第10話・第4話でのほむらや町工場の男に見られる実際の生活に基づいた絶望がトリガーであると考えた場合、まどかやさやかと同じ「幸せバカ」の側の住人にみえる仁美の絶望した原因が、上条の病状について知ったからではないかというのは十分考えられます。

 以上述べた魔女の口づけに関する点以外にも、和子先生が第11話で「その子もかなりダメージ背負っちゃってね」というように、さやかの死に関しても仁美がそれ相応の絶望を抱えていたであろうということが分かります。

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