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“叛逆の物語”へ向けて『魔法少女まどか☆マギカ』のコラム的考察Ⅳ

ライターさん(最終更新日時:2013/10/22)投稿日:

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5.2 佐倉杏子と『さそりの火』

 杏子と『さそりの火』について考察します。

 『さそりの火』とは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』にでてくるエピソードです。彼の『よだかの星』と動物が星になる点で似ています。『よだかの星』のほうが古く、このエピソードの原型であると考えられています。

 以下、少し長いですが引用します。

 

むかしのバルドラの野原にいっぴきのさそりがいて

小さな虫やなんか殺して食べて生きていたんですって。

するとある日イタチに見つかって食べられそうになったんですって。

さそりは一生けん命逃げて逃げたけど

とうとうイタチに押さえられそうになったわ、

そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、

もうどうしても上がられないのでさそりは溺れはじめたのよ。

そのときさそりはこういってお祈りしたというの、

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、

そしてその私が今度イタチにとられようとしたときは

あんなに一生けん命逃げた。

それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。

どうしてわたしはわたしの体を黙ってイタチにくれてやらなかったろう。

そしたらイタチも一日生きのびたろうに。

どうか神さま。わたしの心をごらんください。

こんなにむなしく命を捨てず

どうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために

わたしのからだをおつかい下さい

って言ったというの。

そしたらいつかさそりは自分のからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えて

よるのやみを照らしているのを見たって。

(宮沢賢治『銀河鉄道の夜』[「ジョバンニの切符」より、一部編集])

 

 杏子は食物連鎖の頂点にいると思っていました。

しかし、物語で明らかになるのは杏子の死後ですが、さやかの魔女化という出来事によって食物連鎖において搾取される側であることを杏子は本能的に知ることになります。

 イタチに対応するのがキュウべぇになりますが、イタチであるキュウべぇとそのシステムに対して杏子は気持ちを向けていませんのでここでは比較しません。

 もうどうしようもない状況に陥った杏子とさそりのとった行動が神に祈るという行為であったということ、そしてその結末を考察します。

 物語の結末として、神によるものかどうかはわかりませんが、さそりは真っ赤な火となって夜の闇を照らしていきます。(『よだかの星』では意志によって星となります。)

 一方で杏子の「頼むよ神様、こんな人生だったんだ。せめて一度くらい、幸せな夢を見させて」との悲痛な呼びかけに、杏子にとっての神は沈黙を守ります。

 「こんな人生」と杏子が語るように、杏子にとって自身の人生は価値の無いものという認識でした。最期はさやかとの心中を選びます。

 心中というのは本質的には自殺で、それについては『まどマギ』という物語の上でも容赦の無い現実として受け止める必要があると思います。

 ですが、杏子にとって生きる意味というのは父をはじめとする家族が居てこそなのであって、それがとっくに絶たれていたこの時点で、『まどマギ』という魔女化システムの存在する物語の上では、その喪失から完全に立ち直ることは難しかったのかもしれません。杏子の父の死の描写もありますが、その父と同じような結末をたどるのは悲劇としか言いようがないです。

 ただ、杏子は何に殉じたのか。それはさそりと同じではないのか、というのが結論です。

 第9話で杏子は、さやかについて、「すっかり忘れてたけど、さやかはそれを思い出させてくれた」と、自身がなぜ魔法少女として戦うのかという原点を思い出させてくれた存在だとまどかに告白しています。

9話では「そういうもんじゃん?最後に愛と勇気が勝つストーリーってのは。あたしだって考えてみたらそういうのに憧れて魔法少女になったんだよね」とも述べています。その杏子の原点が如実に表されているのが、第7話における「あたしと親父で、表と裏からこの世界を救うんだって」とのセリフでしょう。

 杏子はさやかの理想を求める姿に自身の姿を重ねていました。その理想は最終的にさやかを自壊させてしまうことになるわけですが、それでも原点を思い出させてくれたとその姿勢に理解と共感を示しています。

 これは、さやかに第7話で「それって変じゃない?あんたは自分のことだけ考えて生きてるはずなのに、わたしの心配なんかしてくれるわけ?」と指摘されてそれに対しての杏子の答えが答えになっていないこと、むしろその答えが、並木道で杏子の口から出る同「自分のためだけに生きてれば」という言葉と矛盾していることからも、もともと杏子の心にも存在しているものであることが分かります。

そして、その杏子の中にもはじめからあった理想を求める心は、さやかの魔女化を見届けることで、“理想を求めたさやかが魔女化するのはおかしい”という信念のもと、完全な復活を遂げます。

 ではなぜさやかと心中するに至ったのでしょう。

 杏子は、思い出した原点に則ってさやかを取り戻そうとするわけですがそれは叶いませんでした。更に、極限の状況の中、神に祈るという行為に至りますが、それすらも杏子を理想の結末へと導くことはありませんでした。

杏子はさやかと心中する直前、「ただひとつ、守りたいものを最後まで守り通せばいい」とほむらに言っています。そして「あたしだって今までずっとそうしてきたはずだったのに」と述べ、髪飾りをロザリオのように握って、沈黙する杏子にとっての神に、二度目となる祈りを捧げさやかと心中します。

 心中という手段しか無かったのかは最後まで分かりませんが、直前の杏子の結界がそれまでと比べて黒く濁っているようにも見えるのは、さやかを救うという理想が頓挫した時点で杏子の心が限界を迎えていたことを示しているのかもしれません。

心中することでしか杏子自身の魔女化を防げなかったと捉えれば、かつてのさやかなら望んでいない姿であろう魔女を倒し自身も運命を共にするという杏子の行動を、さやかと杏子の二人に共通する、人々を守るという理想の実現と考えることが出来ます。

杏子にとってはこれこそが「ただひとつ、守りたいもの」だったのではないでしょうか。

『さそりの火』でさそりは「まことのみんなの幸(さいわい)のために」神に祈った願いが(神によるものかはわかりませんが)叶えられます。

杏子は「幸せな夢を見させて」と祈りますが、さやかを助ける願いは神に沈黙されます。

しかし、その沈黙された事によって出た行動は、さそりの「まことのみんなの幸(さいわい)」と同じような人々を守るという理想を実現させることになりました。この行動には〈この世は生きるに値する〉という信念の存在を感じます。

二度目の祈りをした際、杏子はセリフを述べていますが、その言葉自体はさやかへ宛てたもので、祈りではありません。最期に、杏子が何を祈っていたのか、家族のことなのか、さやかのことなのか、自分のことなのか、それとも神に感謝していたのか、本当のところはわかりません。

以上、杏子もまたさやかと同じく、理想を求めたがゆえの結末といえると考えます。

5.3 間違える美樹さやか

 さやかについては、やや厳しいと感じるような視点からみることで、逆に『まどマギ』という物語におけるさやかの本当の人物像が浮かび上がるのではないかという考察を行います。(結果からいうと、私の美樹さやか像は個人的にかなり良い方向へ変わりました。)

 さやかはとにかく間違えています。正確には、さやか自身が悩み考えてとったひとつひとつの行動が全て彼女の求めた理想の結末にはなっていないということです。

 それはまず、恋愛という極めて人間らしさに溢れる部分からはじまります。

2話でさやかは「その程度の不幸しか知らないってことじゃん。恵まれすぎてバカになっちゃってるんだよ」と自分たちのような「幸せバカ」について洞察しているわけですが、そんなさやかの上条を励ますためにCDを届けるという行為も、上条からは「さやかは、僕をいじめてるのかい?」と言われてしまいます。

これについては、様々な情念が入り混じっていて、純粋で至高な励ますという行為ではなかったかもしれません。さやかの同「意外すぎて尊敬されたりしてさ」というセリフからもそう思えます。

ですが、さやかという人間が自分にできることを最大限しようと考えてとった行動の結果であり、その過程で出てくる様々な情念が入ってしまうという人間らしさを完全に否定してしまうことは誰にも出来ないと考えます。

また、さやかは、正義観についても同様で、理想を求めた結果、望んだ結末へと辿り着くことはできませんでした。

さやかの正義観は第8話の「あんた達とは違う魔法少女になる。私はそう決めたんだ。誰かを見捨てるのも、利用するのも、そんなことをする奴らとつるむのも嫌だ。見返りなんていらない。私だけは絶対に自分のために魔法を使ったりしない」という言葉に象徴されています。

さやかの潔癖とも思える理想の正義観は、利己を徹底的に排した利他だということです。これは同「それってつまり用済みってことじゃん。ならいいんだよ。魔女に勝てないあたしなんてこの世界にいらないよ」という自分を粗末にするという事と同義でもあります。

魔女化システムという存在を抜きにしても、このさやかの正義観は間違っていると言っていいでしょう。そして、それは電車内でのホスト二人組の会話によって、間違っていたと気付かされ、魔女化システムによって魔女になるという結末を迎えてしまいます。

何故、このような正義観がさやかの心に存在しているのか、それは、上記で上条に言われた言葉が原因となっているのかもしれません。

更に、最終話において、さやかはまどかによって導かれるわけですが、このシーンにおけるさやかの涙からも決して理想の結末ではなかったことが伺えます。セリフの捉え方によっては見返りのいらない愛を全うしたようにも思えます。しかし、見返りのいらない愛自体はやはり間違いで、セリフの端々から後悔のようなものがにじみ出ているのもそのためです。

ではなぜ納得してまどかに導かれたのでしょうか。本当に、最終話で言うような「あのヴァイオリンをもっともっと大勢の人に聴いて欲しかった」だけなのでしょうか。ここまでの考察で、さやかには救いがないように思われます。(決して登場人物の救いを求めるために考察しているわけではありませんが。)

結論です。“さやかの間違い”は人間の誰もがしてしまうことであり、全ての人間がその内側に抱えているものです。その不完全さこそが人間らしさと同じことだと考えます。理性と感情において完璧な振る舞いをできる人間はいないということです。しかし、その間違いも人を成長させ、それ自体が生きた証となります。これは決して間違えることを正しいとするものではありません。

さやかがまどかに導かれたのは、間違えたかもしれないがその時その時を一生懸命考え生きたことそのものに対して、さやか自身は納得しているからでしょう。

このさやかの納得は、まどかが救済した全ての魔法少女に通じ、〈この世は生きるに値する〉という生への肯定と同じものであるといえます。

そしてそれは『まどマギ』という、〈全く代償のない奇跡は存在しないという条理を理解する前に少女たちが希望を願ってしまう不条理〉が存在する物語の上では、魔法少女として契約し円環の理へ逝ってしまう悲劇にさやかを固定してしまうのかもしれません。

最終話での、さやかのあの涙は、間違ったことで理想の結末を迎えられなかった悲しみだけでなく、自分の生をその一生懸命さを認めることができた、喜びの涙でもあるように感じられます。

5.4 救済者キュウべぇ

 9話で、キュウべぇは単一個体の生き死ににこだわる人類を理解できないとまどかに語ります。

そしてまどかに「そんな風に思ってるなら、やっぱりあなた私達の敵なんだね」と言われているように、まどかにとって、まどかの考える人類にとって最後まで敵だったということは否めないでしょう。

 しかし、同時に、キュウべぇという存在は、最終話で、キュウべぇの納得と無関係とはいえ、まどかの祈りを叶えている事からもまどかにとって、全ての魔法少女にとって、ある意味では救済者であるといえるでしょう。

 これは、キュウべぇがいなければ始まらなかった『まどマギ』という物語の当然の帰結といえますが、物語の導き手であったキュウべぇもまた舞台の上では役者であり、その役割に可変性が与えられていたことが分かります。

最終的な事実として、敵でありながら救済を担ったということは、まどかにとって、キュウべぇもまた生きるに値する存在であったということを意味しているように考えられます。

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