ここから本文です

この知恵ノートを「知恵コレクション」に追加しました。

追加した知恵ノートはMy知恵袋の「知恵コレクション」ページで確認できます。

知恵コレクション」に登録済みです。

再登録しました。

追加に失敗しました。

ノートに戻り、もう一度やり直してください。

すでに1,000件のノートが登録されています。

新しく追加したい場合は、My知恵袋の「知恵コレクション」ページで登録されているノートを削除してください。

追加できませんでした。

ノートは削除されました。

沖縄集団自決の真実~左翼のウソに騙されていた~

ライターさん(最終更新日時:2014/7/6)投稿日:

  • ナイス!:

    7

  • 閲覧数:8931

印刷用のページを表示する

沖縄集団自決の真実

左翼の連中は、日本軍が沖縄戦で島民に対し自殺を命令、強要したと吹聴しているが、はたしてそれは本当なのか?
本当に日本軍が沖縄戦で島民に対して自殺を命令、強要したのかを調べてみた。

戦争末期、沖縄では民間人の集団自決が相次いで起きた。特に有名なのは、慶良間諸島で死者300人以上を数えたという渡嘉敷島での事件と、172人を数える座間味島での事件である。そして、それが当時島に駐留していた日本軍人の命令で行われた、と信じている人は多い。この2つの事件については…

①最初に軍人の命令によると記したのは、1950年に沖縄タイムス社から出された「鉄の暴風」だ。その中では、渡嘉敷島で自決命令を出したA大尉は徴発と称して村の食料を奪い、住民を虐殺した凶悪な人物として描かれている。

②一方座間味村では、現地部隊長のU少佐が出した自決命令を記録したという証人が現れた。

③大江健三郎も「沖縄ノート」(1970年)において、この軍の命令こそ「沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生」が明確に形をとったものとみなしている。

ところが、実はこの2人がいわば冤罪であったことはすでに明らかにされているのだ。1970年3月、A元大尉と彼の部隊の将兵の生き残りは、人々の罵声を浴びながら沖縄に行き、渡嘉敷島で行われた自決者慰霊祭に参加しようとした。結局、反戦団体の妨害のためにA元大尉本人は渡嘉敷島に上陸できなかった。しかしその時、那覇に到着したA元大尉をマスコミや反戦団体の殺到からかばったのは、渡嘉敷出身者だった。また、かつての部隊の面々も島民から暖かく迎えられた。マスコミに作られたA大尉像と、彼を迎える島民たちの態度とのギャップに不審を抱いた曽野綾子氏は、A大尉の部隊の生存者や、住民に自決命令を伝えたとされる元駐在、自決者遺族らに取材して、結局自決命令が出されたなどはありえないことを示したのである。また、A大尉の部隊は掠奪を行うどころか、むしろ軍の食料を住民に提供していたこともつきとめた。また元駐在の証言では、彼がA大尉から受けた指示は「あんたらは非戦闘員だから、最後まで生きて、生きられる限り生きてくれ」というものだった。だがその時には、村長以下、村の幹部は「捕虜になるより死んだ方がいい」とすでに半狂乱になっており、彼がA大尉の言葉を伝えてももはや自決を止められなかった、という。(以上、曽野綾子「ある神話の背景」1973年)
一方、座間味島でU少佐の自決命令について証言した人物は、自分の娘に「実は自決命令などなかった」と告白していた。戦傷病者戦没者遺族等援護法の改正で、1959年から軍との雇用関係などにあって戦死した人の遺族にも、遺族給与金が支給されるようになった。そこで自分自身を含め「集団自決」を遂げた人々の遺族に給与金が支払われるよう計らうため、軍の命令があった、と偽証していたのである。(宮城晴美「母の遺したもの」2000年)
実はこの証人は生前、U元少佐に対し偽証したことを謝罪し、事情を説明した上で黙認するよう頼んでいたという。U元少佐は当初、「島の人を助けるためなら、私が悪人になってもかまいません」と約束したが、後にその証人が「語り部」として軍の自決命令の話を繰り返し観光客に話していることを知り、1985年頃から事実関係の公表を始めた。証人の娘はこのU元少佐の行動について、母との約束を反故にしたと憤っている。     《原田実 新潮45 2006年4月号》

沖縄戦の「民間人集団自決問題」で、国側の証人として出廷した曾野綾子氏…「自決命令が全く出されなかったという証拠もない。しかし、自決命令があったという証拠もない。自決にはいろいろな要素があり、軍の命令で死んだと言うことは(自決者に)失礼だ」      《秦郁彦 「現代史の争点」 他の著書「現代史の虚実」》

座間味村遺族会長・宮村幸延氏が梅沢氏に、集団自決は梅沢部隊長の命令ではなく、当時村の助役の命令だったが、遺族補償のためにやむを得ず軍の命令ということにいたしました、申し訳ありませんという詫び状を書いている。(昭和62年3月28日付)         《秦郁彦 フジテレビ「報道2001」2007/4/8》 

★しかし宮村氏は梅沢氏に朝から酒を飲ませられ、泥酔状態で書かせられた。私は書いた覚えがないと否定している。(本人は亡くなったが)また筆跡も宮村氏のものではない。      《琉球大教授・高嶋伸欣  〃  》

★→それは裁判で否定されている。それに本人の筆跡だというのも座間味村は認めている。    《秦郁彦  〃  》 

軍の命令があったかなかったかよりも、大きな流れとして自決があったのだから、それは軍がやったものだという遺族の気持ちは分からなくもないが、それは歴史ではなく感情である。       《中西輝政  〃  》

集団自決当時の女子青年団員や沖縄の元看護担当者らから、軍命令はなかったという証言が相次いでいる。     《産経新聞2007/6/23》

満洲でも、ソ連国境の近くにいた開拓団の方たちは、虐殺や集団自決もあった。
    《藤原正彦 文芸春秋2007/5月号》

住民に手榴弾を渡して自決を慫慂したのは日本軍ではなく、地元出身の防衛隊員だった。防衛隊とは正規の兵隊ではなく、沖縄の在郷軍人会が作り上げた在郷軍人から構成される義勇軍であるに過ぎない。防衛隊員は日本軍とは別に、自分たちの家族と共に起居していた。それ故、村民と常時接触していたのは軍ではなく、防衛隊だったのである。

軍から村民への連絡は役場の兵事係を通して行われる仕組みであり、軍が村民に直接命令することは厳戒令下以外はなかった。しかしながら、家族や村民と生活を共にする防衛隊員が、軍の意向を忖度して、勝手に指示めいたことを伝える事例はあり得た。

防衛隊員は兵事係を通じて戦闘用に手榴弾を2個づつ支給されていたが、彼らがそれを自決用に家族に配布した場合もあったに違いない。防衛隊員によって手榴弾の保管箱が盗まれたとの話を、筆者は現地で聞いてもいる。《中村粲 正論2007/9月号》

筆者は、海軍沖縄方面根拠地隊司令官・大田実中将に一家が命を救われたという生存者を取材したことがある。大田中将は、壕内に避難してきた住民を手厚く保護した。そして「壕内にいては戦闘に巻き込まれる」として、軍用車両と残り少ない食料を提供して住民を本島北部の山岳地帯に疎開させた。   《惠隆之介 SAPIO2007/9/26》

沖縄本島より現地の方が冷静に分析している。渡嘉敷島では「とりあえず1ヵ所に集合するように」という命令を、「1ヵ所に集まって自決せよ」と解釈した人が多くいた。         《小林よしのり わしズム2007年12月》 

妻子や親を殺したのは、米軍によって辱められ残虐に殺されることと、肉親である自分に殺されることとの両方を天秤に掛け、後者を選んでやったのである。だから「そこにあるのは愛であった」(曾野綾子氏)というのは完全に正しい。また2つの死のうち、より人間としての尊厳が保たれると思われる方を選択したと言える。
集団自決は、当時の日本人の心理状態では米軍が上陸すれば日本中どこでも起こった可能性がある。現に沖縄で、日本軍不在の地でも集団自決は起こっている。           《藤岡信勝 正論2007/12月号》

集団自決はサイパン島の住民にも起こったが、あれも軍の命令だったのか。集団自決を引き起こしたのは、朝日をはじめとする戦時中の新聞の、軍部に迎合した「鬼畜米英」宣伝だ。    《稲垣武 正論2007/12月号》

はたして、軍による強制はあったのかなかったのか。「軍の関与があった。それを住民は強制と受け止めた」という書き方は十分できるはずだ。

そもそも教育とは、相反する立場の曾野綾子「沖縄戦 渡嘉敷島『集団自決』の真実」と大江健三郎「沖縄ノート」、そして沖縄タイムス社編著「鉄の暴風」と防衛庁戦史室の「沖縄方面陸軍作戦」を読み比べる読解力を身につけさせるものではないか。       《佐藤優 文芸春秋2007/12月号》

沖縄は本土以上に日本人として立派に戦い、それが集団自決にもつながった。沖縄の人たちの勇猛果敢な戦いと数多くの犠牲があってはじめて、米軍は本土上陸を諦めたのだ。       《八木秀次 正論2008/1月号》 

自決はともかく、上官が部下に「殺人命令」を下した例は実際にあった。アッツ島玉砕のときである。
昭和18年5月29日、日本守備隊2,500人が玉砕したが、中には傷を負ったり病で野戦病院のベッドに横たわったまま起き上がれない兵もいた。このとき、軍医たちは上官から病人を注射で薬殺するように命令を受けている。もし沖縄で軍命令が出されていたとしても、傷病兵を戦友の手で殺害して彼らを不名誉から救おうと考えたアッツ島の上官と、ほぼ同じ状況判断を下したといってよい。命令の根底にあるのは愛情である。    《上坂冬子 正論2008/3月号》

考えてもみよ。そもそも集団自決というものは、米軍がその圧倒的兵力を以て迫らない限りは起こりよう筈もないのである。サイパンでも満洲でも集団自決が起こったところはどこでもそうだ。敵がその圧倒的戦力で周囲を包囲し、もうどこにも逃げ場がないという心理的に追い詰められた極限的状況の中でしか、集団自決というものは起こらない。住民をそこまで絶望的立場に追いやったそもそもの元凶は、日本軍ではない。米軍(満洲の場合はソ連軍)なのである。                        《勝岡寛次 正論2008/4月号》

蒙古が対馬を侵したときは、山奥に隠れた日本人は子供が泣くと見つかるので、子供を殺して息をひそめ、拉致された婦人は掌に穴を開けられて蒙古軍船の舳先に吊された。   《岡崎久彦 「吉田茂とその時代」》

昭和19年7月にサイパンが玉砕、絶対国防圏の一角が崩れる。そこで大本営陸軍部及び沖縄第32軍司令部は沖縄県民の疎開計画を立案した。対象は60歳以上15歳未満、合計29万人の1/3の10万人、目的地は九州及び台湾に決定する。 ただちに疎開が開始され、約8万人が県外へ脱出。さらに5万人が本島北部の山岳地帯へ疎開。最終的には約13~16万人が戦禍から免れることになった。《惠隆之介 「誰も書かなかった沖縄」 他の著書「誰も語れなかった沖縄の真実」》

サイパンでもテニアンでも、たくさんの人たちが亡くなっている。ひめゆりの塔の少女たちは軍命令で闘ったわけではない。僕も中学1年生だったけれど、「一人一殺」で死ぬつもりだった。   《屋山太郎 正論2007/12月号》

私の興味を引いたのは、大江健三郎氏が『沖縄ノート』の中でこの守備隊長を「あまりにも巨きい罪の巨魁」と書いていることだった。私は「罪の巨魁」と、神からではなく、人間から断じられるような人を現世でまだ見たことがなかったから、そういう人には会っておきたいと好奇心から思ったのである。それから始めた調査の結果を、私は「ある神話の背景」という題で、『諸君』の1971年10月号から1年間連載させてもらった。

「敵の手にかかって辱めを受けるより、潔く自決する」という考え方は、日本の軍部の圧制によって発生した悪事のように言われるが、世界的にはそういう考え方の方が少数派である。

イスラエルのマサダ要塞では、紀元1世紀にローマ軍に囲まれた千人近くのユダヤ人が、2年間の籠城の後、まず選ばれた10人が全員を殺し、この10人のうちの1人が残りの9人を殺して自分は自決するという最期を選んだ。この事件は決して強制された死ではなく、そこで死んだ全てのユダヤ人たちは愛国者としての名誉ある自決を選んだのだ、と今なお民族の誇りとして讃えられている。         《曽野綾子 諸君!2009/6月号》

「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん

第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。
同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。
照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。
300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。
その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)

◇【用語解説】戦傷病者戦没者遺族等援護法
日中戦争や第二次大戦で戦死、負傷した軍人や軍属、遺族らを援護するため昭和27年4月に施行。法の目的に「国家補償の精神に基づく」と明記され、障害年金や遺族年金、弔慰金などを国が支給する。サイパン島などの南方諸島や沖縄で日本軍の命を受けて行動し、戦闘により死傷した日本人についても戦闘参加者として援護対象とされている。

≪「大尉は自ら十字架背負った」≫
「大尉は、自ら十字架を背負ってくれた」。沖縄戦の渡嘉敷島で起きた集団自決の「軍命令」を新証言で否定した元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)。島民が年金や弔慰金を受け取れるようにするために名前を使われた赤松嘉次元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきた。照屋さんは、自分のついた「うそ」で、赤松元大尉が長年非難され続けてきたことがつらかったという。

戦傷病者戦没者遺族等援護法では、日本軍の命令での行動中に死傷した、沖縄やサイパンの一般住民は「戦闘参加者」として準軍属として扱うことになっている。厚生労働省によると、集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたるという。
照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。
こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、厚生省(当時)は32年5月、集団自決した島民を「戦闘参加者」として認定。遺族や負傷者の援護法適用が決まった。ただ、赤松元大尉の思いは、歴史の流れのなかで踏みにじられてきた。

上記の通り日本軍は沖縄島民に対して自殺の命令も強要もしてなかった。

左翼の連中が「うそ」をついて旧日本軍を悪魔のような組織だと国内外に印象付ける行為(レッテル張り)をどう思うだろうか?

平気で「うそ」をつきながら堂々と反日売国行為をしている左翼人間に付ける薬はあるのか?馬鹿に付ける薬はない、とは言うが、「左翼人間に付ける薬はあるのか」
ぜひとも誰か教えてほしい



このノートに関するQ&A

このノートに関するQ&Aは、まだありません。

このノートについて質問する

このノートについてライターの方に質問できます。

※ライターの方から必ず回答をいただけるとは限りません

※別ウィンドウで開きます

ピックアップ

耳鼻科の先生に聞いた、しゃっ...
  皆さん、しゃっくりってわずらわしいですよね  ある時急に...
知っておきたい無線LANルーター...
知っておきたい無線LANルーターの知識と選び方iPod touchやPS...
厄年について——意外と知られて...
厄年とは何か厄年とは文字どおり災厄に遭いやすいといわれる...
本文はここまでです このページの先頭へ