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明治天皇すり替え説Q&A

ライターさん(最終更新日時:2017/9/8)投稿日:

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明治天皇すりかえフルベッキ写真←大ウソ【大室寅之祐(笑)】→http://bit.ly/2mcrd28

Q,1「明治天皇がすり替えられたというのは本当か?」
A,嘘です。

Q,2「証拠を出せ」
A,宮内庁 天皇系図http://bit.ly/2noZxrd
但、悪魔の証明と言って全く無いことの証明は難しいです。
しかし、不当な皇位剥奪によって、正当な皇位継承資格を侵害された他の皇族による異議申し立てが存在しません。
そのため、明治天皇は正当な皇位継承を行ったと推定されます。

Q,3「明治維新は嘘で薩長の陰謀だったんでしょ?だから明治天皇も嘘だったんでしょ?」
A,皇位継承権を持つ他の皇族が既におり、内戦(戊辰戦争)の真っ最中にすり替えは政治力学的に不可能と思われます。
それも、敵対する旧幕府側・奥羽越列藩同盟に孝明天皇の義弟でもある北白川宮能久親王がいるのにすり替えなどは到底考えられません。
何故なら幕府に対しての不当なクーデターの正当性として、錦の御旗を掲げる新政府軍はその時点で正当性が失われるからです。
すり替え説が旧幕府勢力に知られた時点で徳川家は矛を収める事が出来なくなり、すり替えが事実であれば明治天皇に大政奉還をした徳川慶喜等の戦争後の恭順はあり得ないことです。

Q.4「他の皇族も明治天皇がすり替えられた事を知らなかったのかな?」
A,親王宣下を受けた伏見宮邦家親王(1802年 - 1872年)明治維新の時に健在であり。孝明­天皇を亡くした睦仁親王(明治天皇)の後見人のような形­­­に­­なっており。伏見宮家や他の皇族や女官と孝明天皇・睦仁親王が顔見知りであるので、もしすり替え説が事実であれば、戊辰戦争後に明治天皇の皇女と伏見宮系の王子との間に婚姻は成立していません。

宮中には宮中言葉という隠語があり、もし成り済ましてもすぐにバレます。

Q,5「明治天皇といえば、玄孫の竹田恒泰が有名だけど、明治天皇すり替え説を主張しないのは自己否定になるからだろ?」
A,自己否定にはなりません、そもそも旧皇族は既に天皇の男系子孫であり、竹田氏は北白川宮能久親王の玄孫にもあたるので、「皇統に属する男系の皇子が皇位を継承する」という皇室伝統において、逆に旧皇族としての立場が肯定されてしまいます。

Q,6「DNA等の確固たる証拠を出せ」
A,DNA等の確固たる証拠といっても、その場合には御陵をあばいて明治天皇と以前の天皇のDNAを採取しなければなりません。しかし倫理的に見ても、現実的に困難と思われます。であるなら、最も実証的な証拠は当事者である顔見知りの皇族同士の物理的な婚姻関係であり、これは「確固たる証拠」にあたると思われます。

Q,7「フルベッキ写真に明治天皇はじめ維新の立役者達が写っていると聞いた。」
A,フルベッキ写真は佐賀藩の藩校「致遠館」の学生とともに撮った写真です。
 明治の元勲達の集合写真だったという奇説は、それを覆す原版の発見によって実証的に否定されています。
  「フルベッキ写真」伝説覆す原板」(読売新聞、2013年4月24日付朝刊27面記事)

Q.8「じゃあ、何でみんなすり替えられたって言っているの?」
A,すり替え説の論者は大抵の場合オカルティストか過激な共産主義活動家であり、反天皇制イデオロギーによってその様に主張している者も少なくないと思われます。
それらの言動をする人たちはユダヤ陰謀論者が多いですが、マルクス、レーニン、トロツキーがユダヤ人・ユダヤ系であったということや初期のボルシェヴィキの7割以上がユダヤ人だった事にあまり触れません、この事からも明らかと思われます。
それらの人々は絶対主義的天皇制を打倒するというコミンテルンの方針(27年テーゼ、32年テーゼ)に基づいていると思われます。
ちなみに、「天皇制」という言葉は、1932年のコミンテルンテーゼにおいて、共産主義革命を日本で行うために日本の君主制をロシア帝国の絶対君主制であるツァーリズムになぞらえ、天皇制と規定した用語であり日本元来の用語ではありません。

Q,9「なんだ外国の指令で天皇家を無くそうとしているのか、でも天皇って悪い独裁者なんでしょ?」
A,そもそも天皇というものは国家に独裁的に君臨する専制君主ではありません。
日本現存最古の歴史書『古事記』においても「天照大御神「汝が支配して いる葦原中国は、我が御子の知らす国である」として
天皇は「うしはける」(支配者)ではなく「しらさむ」(公的な統治者)という公としての君主として謳われています。

ちなみに「天皇家」は戦後の天皇廃止論者が広めた造語。『天皇家の歴史』(禰津正志、1953)初出  
「皇室」は『続日本紀』(797年)に出る言葉で、明治維新~戦前は「皇室」「帝室」を併用、戦後は「皇室」が一般的。  

Q,10「でも日本の政治家って天皇と親戚関係なんでしょ?」
A,時の権力者は大抵、天皇の子孫(源氏・平氏)であるか、天皇と外戚関係(藤原氏)になるか、または「源氏・平氏・藤原」を自称しました(織田、豊臣、徳川)、
しかし、皇室祭祀によって天皇自身が俗世の権力から抑制されることによって天皇自身が独裁者になることはまれであり、逆に天照大神を祀る祭祀が国家統治の権威の源として機能し、祭政一致の祭司王として存在していた天皇がいる限り、日本において独裁者が現れる事を防いできたと思われます。
権力者はその天皇により役職(摂政・関白・太政大臣・征夷大将軍など)を任命する事で世俗の権力の裏打ちを必要としました。

Q,11「でも、昔の人たちは天皇が任命した権力者によって虐げられてたんでしょ?」
A,歴史書を読めば天皇は国民を大御宝(おおみたから)として常に慈しんでいます。平安~鎌倉いつの世でも大地震や災害が起きる度に天皇は国民(おおみたから)の為に御所に籠り祈りを捧げられています。
今の立憲君主国の日本においても天皇は国民の為に東日本大震災の後を見ても分かるように、宮中祭祀を見ても、和歌を見ても、お言葉をみても、常に国民の現在と過去と未来の安寧を祈っておられます。
もし日本の政治、日本の民主主義が上手くいっていないのなら、それは国民の問題であり天皇の問題ではないと思われます。

Q,12「なんだ、天皇って日本にとって凄く大事なんだ」
A,はい

 奇兵隊天皇なんて存在しない。1.jpg

「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒

フルベッキ写真は佐賀藩の藩校「致遠館」の学生がフルベッキとともに撮った写真であり西郷隆盛は写っていない

加治将一「西郷の貌」の問題点
http://bit.ly/2jPqjaZ
9d19392f28ed708e2715da0ce74b370e.jpg 元治元年12月「島津久治公と薩摩藩士一行」
テリー・ベネット「Early Japanese Images」 


元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。

「オリジナルはイギリスの古写真研究家テリー・ベネット氏の「Early Japanese Images」に取り上げられている。

島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。」

この写真に西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。


実際に西郷に出会った絵師による西郷隆盛の肖像61GQo.jpg

服部英龍/画(上段左)

肥後直熊/画(上段右)

床次正精/画(下段左)

石川静正/画(下段中央)

平野五岳/画(下段右)

西郷の肖像といえばキヨッソーネの肖像画が有名だが、他にも西郷に直接会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在している。

親戚縁者のお墨付きがあるので「このような顔」だったことは間違いない。


伝源頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をもとに間違いなく西郷本人を描いた肖像である。

Qo.jpg

西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられイト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。

キヨッソーネは西郷とゆかりの深い得能良介からのアドバイスなど西郷の縁者の意見の結果、下半分は従兄・大山巌をモデルに上半分は弟・従道をモデルに西郷の肖像を描き上げたのだから、かなり実像を捉えた肖像だと思われる。

上野の西郷象の公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」

といった意の言葉(薩摩弁)を漏らしたというが・・・。

「 西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、
亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。 」
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/西郷隆盛像
つまり、上野の西郷象の風体、 正装ではなく浴衣で着流しという だらしない姿に「こげんなお人ではない」と言ったのが真意なのだ。



ドイツで発見されたとされる真偽が怪しい西郷隆盛 

420x287x5adcf75857cc461680f5b56a.jpg

※撮影は明治7年となっているが明治8年太政官布告第54号(勲章制定ノ件)から始まった勲章をつけている。

※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。http://bit.ly/2gcZqgy

研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」
歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。

http://bit.ly/2fgSUTe



後南朝の真実
田中義成博士「南北朝時代史」の長禄の変の項には「吉野の山奥に尚南朝の皇子二人御座し・・・・・共に御名並びに御系統を審らかにせず・・・」の記載がある上月記、赤松記を紹介して、これ以上の資料がまだ発見されておらず、今後も期待が出来そうもないと論じられています。

『昭和史の謎を追う』熊沢天皇始末記  後南朝の皇統(川上村伝承川上村伝承後南朝の皇統.jpg

後南朝は滅亡しています。
『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」
「南帝を輙く弑し奉り。三種の神器を取持て忍び出ける。吉野十八郷の者ども起て急に追懸る。御頸をば中村太郎四郎給て出けるが郷人に討れ。とりかへされにけり。三種の神器をば。間島其外の者共持奉て罷上り。内府へ此由申す。」
 note-349444-i2.jpg
後南朝の皇子が殺され、再び奪われたものの、三種の神器(神璽)は取り返されて後南朝は滅亡している。 その後の後南朝の正統な末裔などは西陣南帝などを除き確認されてない。
に南朝の末裔と伝えられる家といえば、鹿児島の後醍醐天皇皇子懐良親王を祖と称する後醍院氏や、後醍醐天皇の孫で宗良親王の王子の尹良親王を祖と称する津島神社社家の氷室氏や大橋氏等以外にはないと思われるが。それらは臣籍降下した後醍醐源氏であり皇位などは以ての外であろう。

一部の陰謀論者は神皇正統記や神皇正統記に影響された大日本史などの水戸学・国学の尊皇攘夷思想の結果、南朝天皇のすり替えがおこったと意味不明な説明をするが

『神皇正統記』巻一 「我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓の­中におきてもおのづから傍より伝へ給しすら猶正にかへる道ありてぞたもちまし<ける」

http://bit.ly/2l55gnW
jubun10 (1).jpg神皇正統記には、「傍系継承であっても正系にかえる道があって皇統は保たれてきた」とあるので、現在の公式的立場である南朝が正統で、南朝→北朝の皇統は矛盾せずに成立し得るが。
皇位にもついていない、系譜も定かではない、自称後南朝→明治天皇などを正統とするロジックは神皇正統記や大日本史には記されていない。


現在の皇統は北朝なのに皇居前に楠木正成像があるのはおかしいという者がいるが

北朝側の立場から描かれている史料には

『梅松論』
 「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前(まつさき)に命を落とすべきよし」申し切りたり。最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。
 bandicam 2016-10-31 03-03-51-962.jpghttp://bit.ly/2l5kUQ7
“最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。”
一方、『太平記』には
『太平記』
「舎弟の正季に向て、「抑最期の一念に依て、善悪の生を引といへり。九界の間に何か御辺の願なる。」と問ければ、正季から/\と打笑て、「七生まで只同じ人間に生れて、朝敵を滅さばやとこそ存候へ。」と申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、「罪業深き悪念なれ共我も加様に思ふ也。いざゝらば同く生を替て此本懐を達せん。」と契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり。」
...「古へより今に至る迄、正成程の者は未無りつるに、兄弟共に自害しけるこそ、聖主再び国を失て、逆臣横に威を振ふべき、其前表のしるしなれ。」
http://bit.ly/2lUOPMj

『梅松論』『太平記』敵味方、南朝側・北朝側にかかわらず、楠木正成は忠臣・勇士扱いであり、皇居外苑にその栄誉を称えた楠木像があっても当然で、何ら不思議はない。
 1294151.jpg 



自称「大室天皇」の誕生
「高松宮殿下、ご災難(昭和五十八年八月二十五日 朝日新聞)」
山口県田布施町御訪問中の高松宮殿下に対し、
同町在住の大室近祐容疑者(82)が古今未曾有の暴挙に及び、
その場で逮捕される。
大室容疑者は毎日、明治天皇は南朝満良親王の二十五世の末裔、
大室寅之助なりなどと意味不明の発言を繰り返しており、
現在同容疑者に余罪があるものと追及中。
今回の事件で鹿島昇なる徳弁護士(横浜弁護士会所属)を顧問として
今回の犯行に及んだ模様。同弁護士も今回の事件に関与したものとして
追求、横浜弁護士会では弁護士資格の剥除を決定。
大室容疑者は精神鑑定のうえ、八王子特別鑑別所へ収容される模様」
 

熊沢・長浜・大室・・・・・・「ニセ天皇」かく語りき

「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号) 

大室天皇の存在が、一部の歴史研究者の間に噂されるようになったのは1980年代初め頃である。いわゆる「ニセ天皇」としてはごく新しいデビュー(?)といえよう。

大室家は南朝の末裔という。大室天皇こと大室近祐(1904~1996)によると、慶応3年(1867)に北朝系の孝明天皇の皇子・睦仁親王が近祐の祖父の兄にあたる大室寅之祐とすりかえられたという。それは長州藩と岩倉具視ら公卿の画策によるものであった。それが本当なら、明治天皇とは大室寅之祐に他ならず、近祐は明治天皇の弟の孫ということになる。
 ハイヤーを下りて、表札を確かめ、玄関に立つ。庭先には「史跡 大室遺跡(弥生時代)」という表示杭が立っていた。
 家族の方の取次ぎがあり、やがてがっちりとした体格の老人が私たちを出迎えに現れた。

「明治天皇のことですか。まあ、こっちに来てください」

 家の離れに建てられたプレハブの倉庫、その中には大量の巻紙が積み上げられていた。大室天皇はその巻紙の一つを抜くと代の上に広げ、私たちに指し示した。紙面に踊るは「瀬戸内海―エジプトの神セト」「聖母マリア」「十字架の地」といった書き込みだ。彼は上機嫌で語った。
 その内容は、大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。いつまでたっても、南朝なり、明治維新の裏面なり、のことは出てこない。
 そこで明治天皇すりかえ説のことに水を向けようとしても、大室天皇曰く、明治天皇がこの家で生まれたことなど、宇宙全体からすれば、ささいなことにすぎないから、というわけで、またも新たな巻紙を広げ、大室家は世界の中枢、といった内容の話を始める。
 大室天皇の語り口からは、その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」

http://bit.ly/2m7suqS




大室近祐  

http://bit.ly/2lgSqBd
oomuro-232x300.png

陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。

鬼塚英昭に影響を与えたのが、この鹿島昇ともう一人、松重楊江である。

そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。

太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナ­ティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んだ。2­009年5月19日腹膜炎のため死去。


鹿島昇とは、「もともと電波な人だったんですが、山口県熊毛町田布施町在住の大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。

もともと大室近祐氏は、地元でも有名な詐話氏でして、

田布施の和田喜八郎(東日流外三郡誌の作者)」と呼ばれていました

大室氏は一時あの古田武彦氏にも接近しましたが、古田氏は「私の専門外」と相手にされ­ませんでした。

しかし鹿島氏らとは意気投合し、大室氏曰く、

「ワシの顧問弁護士」と大変気に入られていたようです。しかし大室氏にとって、鹿島氏は唯一の自己代弁者であり、鹿島氏にとっては、ネタの提供だけでなく、金銭面での最大のスポンサーであり、鹿島氏、大室氏の利害の一致という点で結びついていたのが真相で­す。」


鹿島昇は新国民社を設立後。

1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕岦氏と知り合い、韓国の20世紀に作ら­れた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。

他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島­昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(もしくは統一教会)が関係しているといわれる。

1987年に松重正、または松重楊江と出会い、自分の大叔父(大室寅之祐)が

睦仁親王を殺害して明治天皇になったとする、大室近祐という人物に会いに行き。その後日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。

もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。

松重正 曰く、「朝鮮総督府時代の日本人が、特にクズのような日本人が、韓国人の父祖を差別した事実は歴史としてよく知られているし、こ­とに、厚化粧の年増だった閔姫女史の屍姦事件は伊藤博文がやらせたものだが、日本人のツラよごしでしかない。...韓日の同祖民­族が共同の文化構築を進め、玄界灘にもトンネルを開通して、やがては手を携えて東洋民族の国を樹立すべきであると考える。その一­助にもなればと、いま『韓国と日本の歴史』を書いている・・・」

http://bit.ly/2ltuGw6

『 韓国と日本の歴史 』について

http://bit.ly/2lgWem2

このような認識の在日朝鮮人や共産主義者が明治天皇すり替えを主張しているのである。


第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。

この写真は伏見宮貞愛親王を写したものである
親王殿下2.jpg「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)
貞愛親王.jpg            
貞愛新王3.jpg                     伏見宮貞愛親王 (1858年- 1923年)
 
Meiji_tenno3.jpg                 明治天皇 (1852年- 1912年) 

当時の明治天皇は14歳の成長期である。
成長期には、身長・体格及び声帯の変化を経て成人となり、人格が形成される
身体的特徴及び性格の変化は成長期には誰しも起こる一般的な変化である。

1874年 明治天皇第三皇子 大正天皇ご生誕
明治天皇の皇子は男子5人、女子10人がいたが、
成人した男子は大正天皇ただ一人である。
大正天皇ご誕生から昭和天皇ご誕生まで皇統(明治天皇の男系系統)の危機であった。
1886年 伏見宮邦家親王第17王子 定麿王 親王宣下を受け、明治天皇猶子となり名を依仁と改める。
1889年 皇室典範 永世皇族制を採用         
1901年 大正天皇 第一皇子 昭和天皇ご生誕
1902年 大正天皇 第二皇子 秩父宮雍仁親王ご生誕 
1905年 大正天皇 第三皇子 高松宮宣仁親王ご生誕
1907年 皇室典範増補第1条「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」
1908年 竹田宮恒久王と明治天皇第六皇女 昌子内親王ご成婚
1909年 北白川宮成久王と明治天皇第七皇女 房子内親王ご成婚
1910年 朝香宮鳩彦王と明治天皇第八皇女 允子内親王ご成婚
             全て伏見宮邦家親王の系統の王子。
1915年 大正天皇第四皇子 三笠宮崇仁親王殿下ご生誕
1920年 「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」
    
宣仁親王ご生誕から、皇族降下準則までの15年間(1905年~1920年)は大正天皇の皇子の元服までの期間。
当時は幼児死亡率も高い上に大正天皇以外の明治天皇の男系の皇子は早年で薨去されたため。
事と次第によっては伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す可能性もあったと思われる。
そのために邦家親王系の王子と明治天皇皇女の間で婚姻が成立している。
大正天皇は4人もの男子を授かり、明治天皇の系統の皇位継承資格者が確保されたことで一先ず安定し、皇室の肥大化が問題になり皇族降下準則を定めた。


 明治天皇すり替え説が広まった流れとして、第二次大戦後の自称南朝の自称天皇ブーム、熊沢天皇(熊沢寛道 )・三浦天皇(三浦芳聖)等そして、三浦が『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を自費出版→トンデモ歴史家鹿島昇、松重楊江が自分は南朝で大叔(大室寅之祐)が明治天皇になったとする田布施の変人である大室近祐と出会い、鹿島が明治天皇すり替えを書いた『日本王朝興亡史』を出版→日本で革命を起こしたい共産主義者や新左翼(太田竜、鬼塚英昭)がそれらと出会い、朝鮮系、トンデモ系、陰謀系の出版社で本を出版→それが今知られているすり替え説です。

血統妄想 [ Descent delusion ]

血統妄想とは、「自分は王侯貴族のような高貴な血統の生まれだが、事情により一般家庭で育てられた」などと思い込む、誇大妄想のひとつ。ミニョン妄想とも呼ばれる。
血統妄想は、統合失調症や躁病などの症状として現れる。 


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